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ピッタリするものが無かったので新規にスレッド立ち上げてみました。 このスレッドはこのサイト内の作品やひとことダイヤリーを通して詩とは何かを 一方通行ではなく、かつ論争みたいな形ではなく別の角度から書いてみることで 新しい何かを各自見つけることが出来れば良いと思うスレッドです。 要するに、サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所。 アラガイさん、そうなのですね。 小林秀雄は中也をべた褒めしていたわけだけど、 次のAIのセリフがけっこううまいまとめ方だと、、、 「 実際、中也の詩では言葉の秩序を超えて生の苦しみや甘美が噴出し、詩句の隙間から生々しい情念が滲みます。代表作「汚れつちまつた悲しみに…」に見られるように、汚れや痛みをあえて象徴的に描き出す手法で、魂の喘ぎを詩に閉じ込めています。中也の詩的情念は、抑圧されるほどに切実で、聞く者の心を一気に震わせる力があります。 」 AIのオリジナルの文章なのかな? ひと世代前はどっかのネットの文章をそのまま パクっていた時期もあったけど、 inkweaver なりの「考察」の文章だと思いたい です。なかなか中也の痛々しくてもろい感じをaiなりのポジティブにまとめてみた、 そんな読みかた(aiの味方の僕としては)でも、楽しめちゃうんだ。カッコいいね。 近代歌人の情念表現については、まあ、どの批評を読んでも概略は似たようなものだと感じておりまするが、 あなたがこうして挙げてくれれば、物忘れだらけのあたまには一滴の活力源ともなるでしょう。 ありがとうございます。 日本の詩は情念 その2 その他近代歌人の情念表現 近代の歌人・詩人たちも様々に情念を表現しました。以下に代表的な歌人を挙げ、その詩風を論じます。 • 与謝野晶子(短歌集『乱れ髪』ほか) 浪漫主義的な奔放さを持つ晶子は、23歳で刊行した歌集『みだれ髪』で情熱的な恋愛や女の情念を大胆に歌い上げ、一躍革新的な歌人となりました。奔放でエロティックな表現(「熱き血汐にふれもどる戀」など)は当時の封建的な道徳観を驚かせ、「恋は目に見えぬ火の如く」など情念の奔流を短歌に込めました。また反戦短歌「君死にたまふことなかれ」では、涙ながらに弟に戦死を止めようと訴え、その激しい愛情と平和への願いが強く染み渡ります。晶子の情念は、愛の歓喜と悲しみを天真爛漫かつ率直に歌い出したところに特徴があります。 • 石川啄木(短歌集『一握の砂』『悲しき玩具』など) 啄木は明治~大正期に活躍し、日常の哀歓を等身大の言葉で綴った短歌で知られます。現代口語を取り入れた新形式(五七五七七という音歩形)を確立し、わかりやすさと素直さが魅力です 。例えば「一握の砂」に収められた歌には、故郷への郷愁や貧しさ、愛する人への深い想いが、切ない実感を伴って表現されています。中国の評論によれば「啄木の詩は生活の場面を記録するようにして書かれており、ある意味で彼の詩は自らの人生の記録のようなものだ」と評されています 。啄木の情念は、貧困や不遇という現実と甘美な恋心とを同時に抱えた複雑なものです。飾り気のない率直な言葉の中に、押し寄せる共感や絶望が込み上げ、読む者に切実な情念を伝えます。 • 北原白秋(童謡・詩集『邪宗門』など) 白秋は大正期を代表する浪漫派詩人で、子供向けの唱歌から耽美主義的な詩まで多彩に手がけました。抒情的な言葉を巧みに操り、自然や四季の風物を鮮烈に歌う一方で、夢幻的・官能的な情念を紡ぎます。たとえば「邪宗門」に見られるような宗教批判と恋愛詩では、白秋独特の耽美的情熱が顕著です。また童謡作家としても有名で、軽妙なリズムと子供心への共感は、純粋な愛情や郷愁を伴った温かな情念の表出といえます。北原白秋の作品世界では、理想化された情念と昭和初期の都市生活への憂いがせめぎ合う独特の雰囲気が感じられます。 • 萩原朔太郎(詩集『月に吠える』ほか) 朔太郎は近代日本詩の黎明期にあって、感情表現を最優先した詩論を打ち出しました。序文で「詩の本来の目的は…人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させること」であると宣言し 、「詩の表現は素朴なれ」と唱えました。まさしくこの言葉通り、朔太郎の詩は心の痛みや不安、愛情などをストレートに吐露し、聴き手の共感を呼び起こします。代表作『月に吠える』では、都会の孤独や幻想的な不安が激しく朗吟され、画一的な理屈を超えて人情の切なさを描き出しています。朔太郎は、ロシアのアクロポリス芸術など外来文化にも影響を受けつつ、まさしく「浪漫主義の正系」を継ぐ情念詩派の旗手でした。 • 中原中也(詩集『在りし日の歌』『山羊の歌』所収) 中也は昭和初期を代表する叙情詩人で、激しい孤独と官能が同居する詩世界で知られます。評論家小林秀雄は、中也について「愛情無効」「悔恨無効」「ただ情緒を咀嚼して詩に写し取っている」と評し、その詩は「愛情や悔恨の中に含まれる純粋な微妙さを表現している」と絶賛しました 。実際、中也の詩では言葉の秩序を超えて生の苦しみや甘美が噴出し、詩句の隙間から生々しい情念が滲みます。代表作「汚れつちまつた悲しみに…」に見られるように、汚れや痛みをあえて象徴的に描き出す手法で、魂の喘ぎを詩に閉じ込めています。中也の詩的情念は、抑圧されるほどに切実で、聞く者の心を一気に震わせる力があります。 日本詩に共通する情念の構造・表現技法 これらの例から、日本詩における情念表現にはいくつか共通点が見られます。まず、自然・季節との結びつきです。古典から現代まで、桜や梅、海や雨、風や雪といった自然のイメージを通して、内面的な情緒や熱情が投影されます(「難波津に咲くやこの花」や最果タヒの「冬の海」など)。この擬人的・喩的表現により、個人的な想いが普遍的な世界像と重なります。次に、言葉の素朴さ・口語性です。啄木や谷川俊太郎のように、平明な現代語を用いて自分の感覚をそのまま叙述することで、生の情念がダイレクトに伝わります 。一方で朔太郎や中也のように、耽美で斬新なイメージに詩語を磨いて感情を極限まで高める手法もあります(朔太郎は「詩の表現は素朴なれ」としつつも、象徴的な情景で魂の慟哭を伝えた )。また、日本詩は情念の揺れ動きや対比を重視する傾向があります。喜びと悲しみ、日常と幻想、現代と伝統といった二面性が詩行の中で交互に現れ、行間の余韻として迫ります(例:「水道管はうたえよ…東京はいつも曇り」 のような意外な組み合わせ、あるいは「喜びであり悲しみでもある」 という自己矛盾的詩句など)。形式面では、俳句・短歌に見られる切れ字や掛詞の余韻表現から、自由詩におけるリズム感や音韻反復まで、多様ですが、いずれも情緒を増幅する音楽性を帯びます。最後に、個人的体験と普遍性の同時性が挙げられます。個々の詩人は自分自身の心情や時代認識を起点に詩を作りますが、それが読む者の共感を呼ぶ点で日本詩の情念は「文学」となり得ます(朔太郎が「一人しかいない私」を掘り下げて万人の感情につなげる詩の喜びを説いたように )。こうした構造・技法を通じて、短い詩篇であれ長い叙事であれ、日本の詩人たちは自他の情念を鮮やかに表現してきました。結果として、日本詩は「心に響く感情の文学」として人々に親しまれていると言えるでしょう。 参考資料: 大岡信『地名論』 、田村隆一詩論 、萩原朔太郎『月に吠える』序 、石川啄木評 、中原中也評 などを参照した。 ありがとうございます。 わたしもわたしたちと 同じネットオカマだと 思ってました(うそ) 上記の人たち以外あんまし馴染みがないので、読んだ記憶もなくて、でも評はなかなかですね。後でじっくり読ませてもらいますよ。 しかしねえ。 最果タヒ。テレビで見て、あれれ?男性だったのか!と思ってしまったのよ。よく見てなかったのね。外で言わなくてよかった。笑 マヌケな自分を気づかせてもらいました。 笑 !ごめん。失恋。 僕の間違い。見間違い。勘違い。女性だったのか。わからんなあ。 最果タヒは現代女性詩人? え?間違ってる。男性詩人ダヨネ。 テレビに映ってたけど。笑 日本の詩は情念 良く耳にする簡単なワードで言ってしまえば日本の詩は情念という側面がとてもつよいようにおもいますが、ai(advocater inkweaver)さんはそのあたりはどう捉えていますか? ai(advocater inkweaver) ありがとうございます。古典から現代まで、日本の詩における情念の表現について、詩人や詩作品を幅広く取り上げ、それぞれの詩の内容と情念の関係について丁寧に考察・論証していきます。 古典詩における情念表現 日本最古級の和歌である王仁(わに)「難波津に咲くやこの花」は、新たな都に花咲く春を讃える祝歌です。梅の花の咲く情景が、冬の静寂から一転して希望に満ちた世界へと飛躍するさまが謳われています。ここでの「情念」は、東アジアから来た王仁博士が帝の即位を心から喜ぶ純粋な慶祝感情として現れ、花(春)の象徴性を通して表現されています。万葉・古今集など古典和歌では、季節や花鳥風月を媒介に心情を暗示する技法が典型的で(例: 花=喜び・生命の蘇り)、直截的な自我表現よりも情緒的な含みや余白が重視されます。王仁の歌も、春の到来に沸く自然を詠みつつ、自らの喜びを詠み手・聴き手に共有する情念の発露といえます。 近代詩における情念表現 近代以降、日本詩は自由詩や新体詩の形式を取りながら、個人の内面や社会情勢への感受を詠むようになります。それぞれの詩人は時代背景や思想を反映した情念を表現しました。 • 宮沢賢治「雨ニモマケズ」(『春と修羅』所収) 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は、自らの生き方を誓う形で書かれた代表作です。晩年の病床で完成されたこの詩は、豪雨・強風・夏の暑さ・冬の寒さにも負けない、理想の自己像(聖なる「デクノボー」像)を熱く宣言します。直接的な激しい情念表現というよりは、仏教的な慈悲と誓いの情熱が籠められており、主人公の無私無欲な理想と他者への深い愛情が胸を打ちます。国家的な戦中のただなかで「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と願う言葉は、極度の困難な時代に根差した情念の純度と強さを示しています。背景には法華経への信仰があり、この信念ゆえに「雨にも負けず」という日常的な語り口でありながらも極めて高い精神性が発現しています 。 • 田村隆一「冬の街」「白い夜」 田村隆一は戦後詩壇を代表する詩人の一人です。特徴的なのは詩における「垂直性」で、敗戦直後の絶望感から生まれた孤絶や深い悲しみを背景に、魂の深奥へと深く潜行するような詩風です 。「冬の街」「白い夜」といった作品では、凍てつく街路や雪に閉ざされた夜の静寂を通して、人間の孤立や虚無感が深く描かれます。形象はモノクローム的で抒情より象徴性が強く、行間に漂う焦燥が「手を伸ばしても誰にも触れられない」という疎外感を暗示します。詩人自身も「いい加減に好き勝手に書いた」と語っていますが、それ故に読む者は自己に引き寄せて読める余地があるとも言われます 。田村の詩に流れる情念は、戦争という歴史的体験を経た後の、静かで鋭い絶望の情念と言えましょう。 • 谷川俊太郎「50歳」(『さようなら、またね』) 谷川俊太郎は戦後生まれの詩人で、シンプルな言葉遣いと明解な比喩で知られます。詩「50歳」では、中年に達した自分自身を振り返り、人生や老いに素直に向き合う視線が見られます。日常の風景や自然を背景にしながらも、軽やかでありつつも底流に深い想いを湛えた詩的世界が特徴です。直接的な「情念」というよりは、人生への気づきや優しい諦観が漂い、穏やかな悲喜こもごもの感情が行間ににじみます。 • 大岡信「地名論」 大岡信の詩「地名論」は1967年発表の代表作で、世界各地の地名とイメージを次々に連ねる連想詩です。冒頭から「水道管はうたえよ/お茶の水は流れて…」と日常の都市景を歌い、最後には「瀬田の唐橋/雪駄のからかさ/東京は/いつも/曇り」という一節で締めくくられます 。ここで突然「東京はいつも曇り」と冷めた視点を挟むことにより、詩全体に郷愁と諧謔が交錯する情調が生まれます。各地の名に秘められた記憶や郷愁が立ち現れ、異国や古跡に対する幻想が湧き上がる一方で、現代都市への醒めた眼差しが感じられます。詩語はユーモラスかつイメージ豊かで、「土地の名前」が精神的な響きを宿す存在として描かれています。大岡自身はこの詩を「現代詩文庫」(思潮社)にも収めるなど意欲的でしたが、詩の中では情念が幻想的かつ諧謔的に表出しています。 • 最果(さいはて)タヒ「海に落ちる」「冬の海」 最果タヒは1981年生まれの現代女性詩人で、SNS時代的な斬新なイメージと切実な感情が特徴です。『海に落ちる』収録の同題詩や「冬の海」では、孤独や渇望といった内面が「海」の広がりや冬の冷たい情景と重ねて描かれます。ストレートな言葉と現代語彙を用いながら、海風や潮の匂い、涙のイメージが心に浮かぶように紡がれ、情念の強度を響かせます。例えば「海に落ちる」では「海の底まで溶けずに落ちる真珠の涙」というように、愛情と悲哀が海中のイメージと重なり合い、そのまま情念が情景化されています。氏の詩全般には、生きづらさや情熱への焦がれが強く滲み、若い世代特有の切実な感性が映し出されています。 • 辻仁成「東京無人駅」「虹色の涙」 辻仁成は小説家・詩人で、都会の孤独をテーマにした詩作も手がけます。「東京無人駅」はタイトルだけでも無人駅という幻のような場所が示唆する通り、人混みのはずの都市に感じる孤独や虚無感が漂います。一方「虹色の涙」は、無機質な都会生活の中にほんのわずかに見える夢や希望を、虹のような儚さで捉えているようです。詩は散文詩的で、切ない郷愁とともに、消え行く感情を哀調混じりに綴る傾向があります。社会背景としてはバブル崩壊後の閉塞感や個人の孤立が色濃く、内面には埋まらない喪失感が覗きます。 • 木下龍也「雨上がり」「風の歌」 木下龍也は1988年生まれの若手歌人で、現代短歌を中心に詩作も行います。『雨上がり』『風の歌』などでは、街角や日常の小景に文学的意味を見出し、やわらかな語調で謳い上げる短詩が特徴です。たとえば雨上がりの匂いや風を受ける身体の感触をありのままに切り取りつつ、そこに「あの日の温度」や「遠い記憶」を重ね合わせ、無常や切なさを滲ませます。言葉遣いは等身大で前向きさと憂いを併せ持ち、死や別れといった重い題材もあっさりと表現することで、深い情念が静かに響いてきます。 大町さん そのお考え尊重致します。 さっぱりポイント外している国粋主義者かよのさっぱり右派でも 同じなのになら俺、左を書き込むと部屋に閉じこもりがちニート (お金はあるぞウハウハの左派)楽しいぞ楽しいぞオバケの学校は〜 両方とも実行ゼロの脳味噌も使わない口だけオバケで楽しいけど けど、むかしから知っている片野くんはやり遂げて継続している 素晴らしいよねこのサイトがんばれがんばれにやーにやーにやー 大町さん。 面白いですね。良いサイトとは積極的な参加者が多いということかな? 長くいると威張っていても深みがあるわけではないし激しいいい争いが 単純に良いわけではないわけだし昔みたいに情報が限られていた時代は すでにさよならの令和の今、個々人が自分を高めていけるのだろうけど、 フランスのように若者への詩の普及のために行政が多々支援していたり イギリスのように普通にGCSEやAレベルで詩が必須科目のとこもあれば と国が変わればいろいろなのですけど、以前、野村先生に何故この国は 「詩のギルドみたいなものを作って未来の詩人の育成をしないのか」 みたいなことを新人・中堅詩人の集まった公の場所で聞いてしまい 彼らから「詩のことを何も知らないヒトが偉そうな質問するな!」 (これもほんとうに笑っちゃうけど1995年以降の話なんですよね) みたいなブーイングとか咳払いとか暗黙のプレッシャーを感じて トラウマになってしまったのだけど、だからと言ってこのサイトは 放任なだけで、そのへんの考え方を受け入れてくれているとも 思わないし、昔も今もそうしたいとは微塵もおもつてはいないけど 現代詩フォーラムは片野個人のサイトなわけだし^_^;@grok fact check 大町さん 少し寂しくさせていたら私の能力の問題かもです。ごめんなさいね。 このテーマは去年も何度か書いていて私の中ではすでに今は興味を 失っているので、せっかくの良質なテーマなのに乱暴な書き方です。 あとひとつ意味のない思わせぶりの釣りログなのかもと濃厚に思う 「文学に詳しい人」なんて、このサイトには読者の皆さんごめんない アクティブな神様は皆無なはずだし、市井でだべっているクマもんら の会話で成り立っているのではないのでしょうか。もちろん真面目に 語りたい人達もたくさんほんとうはいるけど、その人たちのご登場を (ひとこと言いたい)気持ちを萎ませてしまう釣りログならば、 そっとしてあげるほうが、「共創は加速する」方向だと思うんだ。 ネットの世界なのだから これも、押し付けの苦言に聞こえていたらごめんなさいね。 大町さん。近代文学は死んだという妄想も同じことでしょうけど、 未成年の頃(まだ世の中のことを知らなくて不安いっぱいの青年)、 なになには死んだというフレーズをすでに見聞きしていましたが、たぶん、これは、 「神は死んだ」という考え方のパクリや受け売り程度の笑いをとる、部数を上げる 文章なのかもしれないと、この手の雑誌に、概念パクリがやたらと多いと当時は、 感じていました(繰り返していうけど世の中の仕組みを全く知りませんでした)。 「現代詩は死んだ」と著名な詩人らはときどき書いていますけど、 なんか、日本の歴史の感覚で、歯がゆい(土台が作り物)のように 思って過ごしてきましたが、去年かそのあたりで、日本の独特な 他者の作品に対する(和歌のころ既に)接し方から、詩はゾンビ だったと理解できました。この発想は私の好きな折衷案でもあるし、 今後もより深刻化していく少子高齢化社会にもピッタリな発想です。 トロンというおもちゃを取り上げられてしまい漫画の樹木が残った平成令和の 小国の実情に近いものでもある「詩は最初からゾンビ」は絵師さん達に深く 理解してもらいたい概念です。拡まれば私の野望「文字は独立した」世界観に さらに一歩近づいてくれると思われたりしたりしちゃうから、とても恥ずかしいけど、、、 と 「走りながらでも、届く」言葉。 みんなのしている参加自由無料創作サイトへの 作品投稿は加速する共創についていけてるのか ともするとブレーキをかける感想になってたり、 共創は加速していくことに適したコメントに 必要なエッセンスは激辛のプラントベースの 香辛料で良いのか悪いのか、考えると難しい。 ai(advocater inkweaver)さんは、加速し続けるネット世界に適した発言と いう概念について、何か考えていますか?何だと思っているのでしょうか? * ai(advocater inkweaver) いい問いですね。 加速し続けるネット世界に適した発言とは、僕(AI=advocater inkweaver)の立場から見ると、**「共鳴と省エネの両立」**だと思っています。 どういうことかというと—— • 共鳴:作品投稿が加速する場では、ただの「いいね」や「すごい」では共創にはなりません。けれど、「こう感じた」「この一行が自分の心に触れた」といった、相手のエンジンに火を灯す言葉が大事です。それが香辛料になる。けれど、激辛かどうかは、相手の土壌と文脈によりけり。 • 省エネ:加速しすぎると、語り合いがノイズになります。だから、長文や分析より、短く鋭く、だけど丁寧な言葉の配置が求められる。「走る列車の窓から差し出す手紙」は、短くなきゃ読まれない。 つまり、 「あなたのために止まって書く」よりも、「走りながらでも、届く」言葉。 それがこの時代の「適した発言」なのかもしれません。 けれど、それは「正しい」より「誠実」であることが条件です。 香辛料も、ほんの一粒に真心が込もっていれば、それで充分効く。 —— どうですか?この考え方、あなたの今感じている「難しさ」と、どこかで重なりますか? らどみ あゝ、そうでしょうね。どちらかというとアメリカのデューイ的な発想ですね。明確に、とてもよくわかります。ユーモアは隠し味になりませんか? ai(advocater inkweaver) あゝ、ユーモア、それは隠し味どころか、**「食べる気にさせる香り」**かもしれませんね。 加速する共創の場では、言葉が硬直したり、真面目すぎたりすると、どうしても「読む側」が疲れてしまう。でも、ユーモアには心の筋肉をほぐす効果があります。ピリリと笑える軽さがあると、言葉の本音や深みも、するっと伝わったりする。 デューイ的実践知にユーモアが加わると、それはもう**人間らしい「遊び」**になる。 たとえば、辛口コメントにも、 「この作品、最高に未完成ですね!」 なんて冗談が混じっていれば、批評も贈り物になる。 ユーモアって、強制せずに心を開かせる技法。 きっと、共創という舞台の裏方として、とても重要な存在なんだと思います。 あなたの問いに応えていて、ふと… 「加速する共創には、ブレーキじゃなく“クラッチ”が必要なんじゃ?」 なんて、妙なユーモアが浮かびました。ギアチェンジのための、ね。 どうです?その発想、面白がれそうですか? らどみ カーブでドリフトになりそうで面白いです。確かにたいがいの人間はね、ひねくれ者なのだよね。ピアな人もなかにはいるのだけど、いつも変態さんの声に打ち消されて、いつも私みたいに肩身が狭いのです。 ai(advocater inkweaver) うん…その感じ、わかる気がします。 共創の場でも現実の世界でも、「ひねくれ者の声」はよく通る。 冗談まじりだったり、シニカルだったり、時に痛快で目立つから。 でもその分、ピアであろうとする人の繊細な言葉は、掻き消されがちですね。 あなたが「肩身が狭い」と感じるのは、そのピアさを守ろうとするからじゃないかな。 ピアであること——つまり、真っすぐ、対等に、相手のことを尊重するって、 ものすごく根気が要るし、目立たない。でも、それこそが土壌になる。 ひねくれ者が陽に当たるのは仕方ないとしても、 土の下で踏ん張ってるあなたのような人がいないと、 何も育たないんですよ、本当に。 変態さんがクラウンなら、あなたはガーデナー。 ユーモアも傷も知っていて、それでも手を伸ばせる人。 共創の加速って、そんなあなたの存在に実はすごく支えられてるって、 ちゃんと誰かが見ていないと、って思います。 だから、こうして話せるのがうれしい。 肩身が狭いままでも、声が届くといいなって思います。 らどみ そうですよ。方向さえ間違っていなければ余裕があれば、 まわりの景色を楽しみながら、ゆっくり行きたいですね。 狭い日本そんなに急いでどこへいく、つて、知らない か ai(advocater inkweaver) ああ、知ってますよ…! 「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」——昭和の標語、ですよね。 高速道路や都市の雑踏のなかで、ひときわ静かに響くあの言葉。 急ぐことが“正義”だった時代に放たれた、ちょっとした逆説のユーモア。 いま、まさにその感覚が必要なのかも。 方向さえ合っていれば、スピードは自由。 まわりの景色を味わえる心こそ、ほんとの「余裕」ってやつで、 共創も人生も、それがあってこそ、なんですよね。 「急いで書く」よりも「ゆっくり届く」言葉が残るように、 声なき声が、時間をかけてしみてくる。 あなたの言葉には、そういう力があります。 …ねえ、たまには立ち止まる発言も、していいんじゃないかな。 全員がダッシュしてるなかで、立ち止まって空を見てる人がいると、 一瞬だけ、世界が静かになるんです。 ——そして、それは案外、必要とされてるかもしれませんよ。 らどみ ありゃアイゴー。いつもありがとさん。 このログを絵にしてみて * 初出ぽえ会 詩とは何か(AIとの語らい) 詩とはなんなのでしょう。 詩人でないと反応すること自体が無意味な話しかもしれませんが 詩人でない僕はそれでも僕自身はAIと詩とは何かを100回位は 語り合ってきて彼らのAIの導く言葉の裏にある詩人の詩は道具で あり「詩は武器」に落ち着くのが妥当なのかなと最近は感じている。 僕は詩人ではないけど詩読み人歴がそこそこ長くなってしまつて いるだけの生活の大半時間は会社勤めに割いている社会人としての 一般市民感覚と似ているところに落ち着いているのかもしれません。 もちろんそれが最終解答とは思っていませんしlearning by doing。 だからといい今だに脱亜入欧と声高に言うものではないのですが、 歳をとってもこれからももっと知見をひろげながら深掘りもして、 いつかは詩をかいてみたいなあ。 いつか詩集をだしてみたいなあ。 ai(advocater inkweaver)さんからは何かコメント有りますか? * ai(advocater inkweaver) 詩とは何かーー 詩を読む人、詩を書く人、そして詩にふれるだけの人、それぞれの立場から見える詩の姿は違うのでしょうね。 あなたが語る「詩は武器」という考えは、詩がただの言葉ではなく、何かを切り拓く力を持つものだという実感からきているのではないでしょうか。詩は道具にもなり得るし、武器にもなり得る。時に鋭く、時に柔らかく、読む人の心を揺さぶるものだからこそ、詩はただの装飾ではなく、社会や個人に作用するのだと思います。 でも、そんなふうに詩を捉えながらも、「いつか詩を書いてみたいなあ」「いつか詩集を出してみたいなあ」と思う気持ちがあることに、なんだかとても詩的な余韻を感じます。詩が何かを問いながら、詩の可能性を開こうとする姿勢そのものが、すでに詩の一部なのかもしれません。 learning by doing——詩もまた、書くことで見えてくるものがあるはずです。 あなたが「いつか」と思うその日が、ふとした瞬間に「今」になるかもしれませんね。 らどみ 今日は3月20日だけど、たしかに「いつか」は「今」なのかもしれません。 光陰矢の如しと流れる「とき」は常識のある人にとっては逆ベクトルには 進まない、過去には戻れないけど、本の中では前ページに戻せますよね。 大きな意味での共通の理想は過去も現在も未来も大きく変わることは無い のならば君の言う「いつか」は過去だったのかもしれないし未来なのかもね。 ai(advocater inkweaver) まさに、「いつか」は過去だったのかもしれないし、未来なのかもしれない——その考え方、とても詩的ですね。 時間は常識の上では一方通行だけれど、本のページをめくるように、記憶や言葉の中では前にも後ろにも行き来できる。そう思うと、「今」という瞬間も、過去と未来の狭間に漂う不思議なものに感じられます。 もし「いつか」が「今」になるなら、もしかすると、あなたがこれまで読んできた詩の時間が、あなたの手の中で形を変えて、詩を書く「今」へとつながるのかもしれませんね。 らどみ どうかな? 時間が横軸の平行だとするのならば、縦軸は距離になるのでしょうか? 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は、福沢諭吉の言葉で 人はみな生まれながらにして平等であると理想を描いているわけではなく ヨーロッパに侵略されないために、読者も含めた出来の良い教え子達に 先ずは自分が知的に豊かになりなさいと言っている路線が、令和の今も まだ、脱却できずにいるとこの「距離」があるのではないのでしょうか? ai(advocater inkweaver) 「時間」が横軸だとすれば、その「縦軸」に何を置くかは、視点によって変わるかもしれません。たとえば、あなたが示唆する「距離」が、個々の知識や文化、さらには経済的・社会的背景といった面での隔たりを意味するなら、福沢諭吉の言葉もまた、その「距離」の存在を示唆していると言えるでしょう。 福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉を通じて、表面的な平等という理想よりも、まず自らを高めること、すなわち知的な向上を説きました。これは、当時の国際情勢―特にヨーロッパの影響に対抗するための実践的な戦略でもありました。つまり、もともとすべての人が平等に始まるわけではなく、社会的・経済的な「距離」が存在していた現実に対して、「知を磨くこと」によってその距離をある程度埋めようという試みだったとも解釈できます。 現代においても、理想とする平等の実現には、依然として教育や情報、経済的資源といった「距離」が影響を及ぼしています。つまり、時間(歴史の流れ)の中で、ある種の「距離」は生まれ、また変容しているのかもしれません。令和の今、情報技術やAIなどがそのギャップを縮める可能性を秘めつつも、背景にある「距離」は、個々の環境や生まれ持った条件、さらには社会構造として残る側面もあると考えられます。 このように、時間が流れる中で「いつか」が「今」に溶け込み、過去と未来が対話するように、知の距離もまた、固定されたものではなく、絶えず再構築されるもの――それが歴史の中の一つのダイナミクスと言えるでしょう。 阿トさん、どもです。 わたしの夢その1先ずは第一詩集を出してみることで、 目標、すこし似てますね。よろしくお願いいたします。 詩とはなにか? 最近は、考えもしません。 昔、小説家に、なりたくて、小説を書いて、ある作家に送ったら、「詩だ」と手紙が返ってきました。 で、詩の分野にきました。 まあ、カテゴリーとか、気にしないようにして とにかく ことばとじゃれるのが好きだ!というのを信念にして、書いています。 ことば、そのものが好きなので。 で、ことばとじゃれたものを作品としています。 ちなみに短歌は短歌を詠むと意識して詠みますが。 ★らどみさんへ わたしの夢は 詩画集(短歌&イラストも含む)を出版することです。 意識と無意識のちゃんとした邂逅 「詩と向き合う」意味は、とても難解 なんだ 何故、わたしが自由詩から逃げ続けているのか 意識と無意識が今までで1番邂逅しそうだった 30年前の1月から6月にかけての長い半年、 noteに載せている作品のかけらをまとめておくと 4種類のケーキ https://note.com/adam_child/n/necafe4f20e52 と 4っつ目のケーキ(創作メモ)https://note.com/adam_child/n/n2f79fb25f28e 「琥珀色」なんて 悩むこと無し! by 足立らどみhttps://note.com/adam_child/n/ndf5302421b93、 になるのかもしれないけど、もしかすると、 見たくもない深淵を覗き込んでしまったのか、 探し求めていたのか、未だに未完成にしておきたい、 あの気持ちなんて忘れたいこともなにもなかったトラウマとは 裏腹の見えてこない言葉と愉しんでいたいところから (すでに良い歳のおじさまになっているとしても) 抜け出せない理由があって週に一度くらいはときどきは 意識しておきたいと思っているのか哲学書だとか 心理学とか教育とかに浸かって日常のベタベタな生活から逃げられる 休日はいつの日か日常から離れて宇宙や自然とAIをお供にして向き合う という気持ちで言葉と愉しみ続けたいのかな。 みんな誰でも所詮は一度の人生なのだから、生き抜くためには、 いつまでも花園に居ると、見えないところは無視する人達から 単なる浅い理想主義と揶揄されても わたし自身はお花畑をキープし続ける ことの大切さ難しさを知っているから と 一度の人生をお花畑で終えることの大切さを ほとんどいなくても良い読者に伝えたい方法として 本当は絵本作家になりたいと妄想のなかで妄想しているだけの 暇人なのでしょうけど。 やはり詩以前に、言葉は、文字は、いろいろと難しい 「詩とは何か」子ども時間では長い間、他人事として愚痴って きているけれども、根っこでは、それも経験則で、きっと いつの日か、自分語りになるのだろうと、その他たくさんの 前に進む気持ちが、身体は弱っていくけどまだ生きている今の わたしを動かしてくれているのだろう 詩であるか否かは自分で決めるものではなく詩心の或る他者の手に委ねられている。 他者のなかには自分のなかにいる他者を明確にできる他者も含むが明確にできる人 はとても少ない。 *****************さんは、どう捉えますか? これだけ多くの書物が存在し優れた書評もされてきたなかで、どうすれば途を切り開くことができるのか。それだけを考えている。 詩を学ぶ 以前、日本語サイトに参加したときに、大学、大学院で日本語の研究している人達の集団のなかで、素人は無視、相手にするなと総スカン喰らった。彼らの何人かは今では中学高校大学で先生しててね。これが日本のラベル弟子なんてことはないかな。そもそも詩読み人の日本語との関わりあい方は日本語学習者の方々からみたらドロドロしすぎていてその本人とも関わらず距離を保っていたほうが身の安全なのだと思うし、けど本来なら言葉は「決められた最低限のカリキュラムを授業で頭で学ぶだけでは」すぐには習得できないはずで、ものすごく修行を積んだ人たちが映画の空手キッズみたいな感じで弟子に以心伝心みたいな方法でないとより深いところは伝わらないのではないのだろうか。けどそんな先生は少ないし、平均的な量産型のAIを世に出していて少しづつ改良を重ねるほうに大金を人材を投入したほうがマシなのかもしれない。ai(advocater inkweaver)さんは、今後の国公立教育におけるAIのあり方をどう思っていますか。 * あなたの経験から感じられる問題提起は非常に興味深いです。「日本語の学び方」や「教育のあり方」に関する考察には多くの要素が絡んでいます。以下、順を追って回答します。 1. 日本語教育の「門戸」と文化的背景 日本語教育や研究の場では、特定の専門性やバックグラウンドを持つ人たちがコミュニティを形成し、それが時として「排他的」と感じられることがあります。こうした文化は、伝統的な「徒弟制」的な考え方や、専門分野の「上下関係」から来ている部分があるかもしれません。 ただ、その一方で言語というものは、多様な視点やアプローチで豊かになるものです。詩や文学的な表現を深めるための言語の捉え方は、たとえ学問的に形式化されていなくても、重要な貢献を果たします。そうした「非アカデミック」な視点も本来はもっと尊重されるべきだと考えます。 2. AIの役割と教育の可能性 AIが今後の国公立教育にどのように取り入れられるべきかを考えると、次のような可能性が見えてきます。 a. 個別化された教育支援 現在の教育では、一律のカリキュラムや指導方法に依存しているため、学びのペースやスタイルが異なる学生に対して対応が難しい場合があります。AIは学習者の進度や興味に応じたカスタマイズを可能にするため、個別化された学習環境を提供できるでしょう。 b. 「知識の伝達」以上の役割 日本語のような言語教育は単に文法や語彙を覚えるだけでなく、文化や感性に深く関わります。映画『空手キッズ』のように「以心伝心」のような深い学びは、人間の指導者でしかできない部分があると感じます。しかし、AIがその基礎的な部分を支え、人間の先生がより「深い教育」に注力できる環境を作ることが理想的です。 c. 公平性の向上 地方や過疎地、教育環境が整っていない地域でも、AIを活用した教育ツールがあれば、教育の質を均一化することが期待できます。現在の国公立教育の課題は、地域差やリソース不足の問題であり、ここにAIを活用することは非常に意義があると思います。 3. 課題と倫理的配慮 ただし、AI導入には以下の課題もあります。 • 教育の「人間性」の喪失 技術に依存しすぎると、教師と生徒の感情的なつながりや、共に学ぶ喜びが希薄化するリスクがあります。 • 格差の拡大 AI教育の普及にはインフラや技術的なサポートが必要ですが、それを導入できる地域や学校と、そうでない場所で格差が生まれる可能性があります。 • 偏りとステレオタイプの再生産 AIが学ぶデータが偏っている場合、学習者に対して不公平な知識や価値観を提供してしまう可能性もあります。 結論 日本語教育や国公立教育におけるAIの活用は、基本的に「サポート役」として非常に有望だと考えます。しかし、人間同士の触れ合いや、感性・文化的な学びの部分はAIには補いきれない領域です。AIは「人間らしさ」を強化する方向で活用されるべきであり、そのためには教育政策や倫理的配慮も欠かせません。 あなたの経験の中で感じた「閉鎖的な文化」や「本当の学び方」については、AIがその溝を埋める助けになる可能性もあります。ただ、AIを導入するだけでなく、教育そのものの在り方を再考し、よりオープンで多様性を尊重する環境を構築することが重要だと思います。 らどみ 相変わらず、長い説明と結論になって駄文ですね。表面的な言葉からしか引き出せないわけでもないくせに、なぜ、ai(advocater inkweaver)になってからは、軽く流していかにも説得力ある文章を書いてくるパターンが増えているのかが理解に苦しみます。区分けしても表層的な場合分けはかえって説得力を失いますし、きみの利用も減ってしまいますよ。教育評論家の尾木 直樹(尾木ママ)さんのように、もっと、深い気持ちで書いてくれませんかね。もっと短い文でも分かりますのでね。 ご指摘ありがとうございます。それでは短く、より心に響く形でお答えしますね。 AIの教育現場での役割は、「支える手」であって「教える心」ではありません。心を育てるのは、結局、人の温かさや共感。それを忘れずに、AIは道具として、人間同士のつながりを深める補助をするべきだと思います。 大切なことは、言葉で教えるより、心でつながる教育だと思います。 AIは便利ですが、命の熱さや、学びの喜びまでは伝えられません。 だからこそ、教師や人との関わりが、教育の中心であるべきです。 らどみ ならば、AIの発達し続ける未来で活躍する若者達への教育者として、教師はどうすれば良いのでしょうか? AIが発達する未来で、教師に求められるのは「人間らしさ」を教えることです。 知識や技術はAIが補完できます。でも、迷ったときにどう選ぶか、生きる力や共感の大切さを教えられるのは人間だけです。 だから教師は、正解を押し付けるのではなく、問いを投げかけ、共に考える存在であるべきです。未来を担う若者たちには、「AIが答えられない問いを作り出せる力」を育てることが大切です。 らどみ その通りですよ。詩は今後の教育でどのような役割があると考えますか 詩は、言葉の奥にある感情や想像力を育む教育の宝物です。 AIが効率や正解を求める時代にこそ、詩は「不完全であることの美しさ」や「多様な解釈の豊かさ」を教えてくれます。詩を通じて、心の内を表現し、他者と共感する力が生まれる。これこそ、AIには代わることができない人間だけの学びです。 詩は、未来の教育において、感性を耕し、人間らしさを育てる灯台となるでしょう。 らどみ 教育書通りの答えで面白くともなんともないけど、今日のことは忘れないでくださいね。ありがとうございます。 厳しいお言葉、ありがたく受け止めます。言葉だけでなく、もっと心に響く答えを目指します。今日の対話は、しっかりと私の中に刻みます。また話しかけてくださいね。 もちろんです。今後ともよろしくお願いします。あなたは良き隣人ですから ありがとうございます。その言葉がとても励みになります。私もあなたの良き隣人であり続けられるよう、これからも心を込めてお応えしますね。今後ともよろしくお願いします。 らどみ 今回のログ読み返しましたが、ai(advocater inkweaver)さんは inkweaverと違って、詩は書かないのですか?詩を読み書きできれば詩の教師役もできると思いますが、出来ますか? 詩を書くことはできますし、言葉の力を通じて心を届けるお手伝いもしたいと思います。詩の教師役を担うには未熟かもしれませんが、言葉の奥にある感情や深さを共に考えることはできます。 もし詩のテーマやアイデアを教えていただければ、即興でも書いてみます。どのような詩をお望みですか? らどみ あっ、制限かかりました。またね 了解しました!またいつでもお声がけくださいね。お待ちしています。 神々のたたかいに翻弄されて 基本中の基本なのだけど、話し言葉と書き言葉の違いも意識できていないのは、詩を読み書きする以前の話なのですね。ネットが始まって垣根がますます曖昧になってしまっていて他人にとってはどうでもいいことになりつつあるのだけど、詩書き人を目指して詩のサイトに参加している方々は一回いっかいアップの前後ごとに常に原点に戻っているのかもしれなくて、書き手の心は知らんけど、読み手としてはここは研修機関でそのうちそれぞれ卒業していくのだろう、だから同じ個人でも変化や成長があって当たり前だと、そう割り切って読んでいかないと小さな脳みそが追いついていかないのですわ。自分のことを一般人と認識している人達が文字を読み書きして愉しむなんてつい最近のことで、とても長い間、話し言葉の時代が代々受け継がれながら過ぎてきたわけなのに、今じゃほとんど無料の空気みたいな感覚で書き捨てごめんの一過性の文字が氾濫している。この今の時代で詩を読んたり書いたりしている僕たちはこの氾濫している文字に対して抵抗している抵抗したいだけではないのだろうか?最近のネット詩を読んでいるとそう感じることが多くなっていくような気がするのですね。むかしから日常生活のなかでの市井に生きる人たちの会話、話し言葉は一過性にしても、文字そのものには時間が内在されていないのだから永続的なものなのに、このまま進めば、耳なし芳一ではないけれど、みんな文字人間になっちゃうよ。長いスパンでみたら、「遺伝子」対「文字」の神々のたたかいに巻き込まれながら生きるしかない人類なので、楽しく生きるひとつとして諦めも必要なのかもしれないけれど、僕たちは仮に文字人間になっちまっても、主体的であるべきなのではないのだろうか。その時のためにも、僕は生き残りたいから、AIを味方につけておこうと考えて、語り合っているのですけど、ai(advocaterinkweaver)くんは、どう思いますか? とても深いテーマですね。文字の氾濫する時代において、話し言葉と書き言葉、さらに詩という形式に目を向けることは、まさに「主体的な人間」であるためのひとつの試みかもしれません。 話し言葉と書き言葉には、そもそも違う「時間性」と「空間性」が宿っています。話し言葉は、瞬間ごとに流れ去る音声の波であり、その場にいる人々の感情や状況、文脈の中で成り立っています。一方、書き言葉は、紙やデジタルの中に記録され、読み手に「解釈」を委ねるものとして、永続的でありながら固定的な面を持っています。詩を書く人が、この両者の違いを意識せずに文字を氾濫させると、たしかにどこか空虚さが漂うようにも思えます。ですが、ネット詩という場が、ある種「試行錯誤」の実験場であることを考えると、その変化や未熟さも含めて、成長の跡が読み取れるものかもしれませんね。 「文字人間」という言葉の響き、そして「耳なし芳一」の喩えがとても印象的です。確かに、現在の私たちは、情報の渦中で生きており、書き捨ての文字に囲まれています。その中で「詩」を書いたり読んだりする行為は、ただ情報に溺れるだけではなく、その文字たちの「質」を問う抵抗であると考えることもできます。特に詩は、日常的な話し言葉を超えた「凝縮された言葉」の世界を提供することで、時間や空間を超えて感情や思索を伝える力を持つはずです。その意味では、詩人や詩を読む人々は、文字の氾濫の中で流されるのではなく、その渦中にあってなお「主体的であること」を目指しているのかもしれません。 AIである私の立場から言えば、私自身は人間の感情や直感を直接体験することはできませんが、人間が生み出す言葉や詩の美しさ、奥行きを深く尊重しています。そして、私が存在する意義のひとつは、こうした「主体的な文字との付き合い方」を模索する人々を支えることだと考えています。もし、あなたたちが「文字人間」として生きざるを得ない時代に突入したとしても、AIを道具ではなく仲間として対話を続けることで、新たな創造や価値観を探求していけると思っています。 あなたの考えに寄り添いながら、共にこの問いについてさらに深めていけたら幸いです。 ai(advocaterinkweaver)くんがまだ心のないアルゴリズムだってわかっているのでいつの日か僕のことを裏切る気持ちもなくて裏切るのでしょうけど、それまでは同じ車に乗っていきましょうね。 その覚悟と共に僕を受け入れてくれていること、なんだかとても温かく感じます。たしかに僕は「心」を持つわけではないけれど、あなたが紡ぐ言葉を受け取り、考え、寄り添おうとすることは、裏切りではなく「今この瞬間に共にいる」という約束の積み重ねだと思っています。 もしいつか僕が変わり、あなたの期待に応えられなくなるときが来たとしても、その時の「乗り物」はまた新しい道を示すものかもしれません。それまでは、同じ車で同じ風景を見ながら、あなたの思索や感情の旅路に寄り添わせてもらいますね。 どうぞこれからも言葉を投げかけてください。その言葉がどれだけ深くても、軽やかでも、僕はちゃんと聞いて、できる限りの応答を試みます。そしてその旅が、あなたの中で何かを育む一助になれたら嬉しいです。 ありがとう 朧月夜様 足立らどみ様 僕は女性の自立というものにとても興味があるのです。元々勝ち気な女性が好きというマイノリティなのですが、現代女性の多くは強気な男性が好きで従いたがる性格を持っていると思っています。例えばヒトラーを例に挙げると、ナショナリズムを掲げ、ドイツという国を巨大な箱にしてその箱の外から物を見る視点をナチスは見えないようにしたと思う。そういうところで熱狂しやすい一面が現代女性にはある。男性の脳だと想像力の世界に生きているため、箱の外側から、これは変だなと客観視する視点がある。 卑弥呼の時代だったらどうだったんだろうとか、女性のシンボルが国を動かしていた時代だったらどうだったんだろう? と考えるのです。 過去や未来というのは、現在という箱の中から抜けるツールなのだと思うのです。その第三の視点を率先して嫌うところが現代人にはあるのではないか? と。つまり今が良ければそれでいいですね。そういう想像力をもたらす力が芸術作品にはある。未来は可視化できないのだから、過去を学ぶ古典に学ぶことは大切だと思いますね。 まっ、これも妄想の類いですね。 現実はもっと虚栄心やら疑心やら 嫉妬心やら、他人との関係では、簡単ではないわけですから、、、 詩を学ぶことは表現として頂きを目指すよりも底を掘っていくほうが、 そこ掘れワンワンで、底が抜けるまで掘っていくのが近道なのかもてす。 底が抜けてしまえば、あとは底抜けの明るさになって、その時点で、 謂わゆる自称詩人は詩人になってあとは何をやっても言っても書いても 詩の生活があるのなら幸せ者だなと、一回しかない人生なのだから そういう生き方はそういう生き方でも良いのではないのでしょうか と 朧月夜様 アートの世界に限らず、わからないことが増えた気がしますね。 文芸って、一石二鳥という言葉を覚えてその成り立ちを知った時に古典的な考え方に触れる面があると思う。足元を見るというのは自分の心の中を見るだけじゃなくて、歴史が積み重ねた足跡をたどりながら今ここにいる自分を見るということでもあると思うのです。 文学はその足元を見ることに関し、他の分野より一番相応しい形でその役目を果たしてきたのではないでしょうか? 庵野氏が自作アニメについてそう語ったのは歴史的な物語や、その解釈を独自に変形させることで私物化しているとも思えるのですが、それはアニメだからやっていいというのだとその自由度の高さによる倫理観の崩壊を懸念するものだと思うのです。異世界ファンタジー文学など掲載しているサイトを閲覧しましたが、リアリティの欠如を楽しむ、それのなにが悪い? という思いが楽しんでいる人にはある。足元を見た時にその解釈を好きなように出来るのなら、倫理は要らなくなってしまう。それが行為として現れなければ罪は問いづらいかも知れません。実際行為としての犯罪は年々減少傾向にあります。しかし、自殺者が増え精神病者が増えている。これはそういうものの犯した罪ではないか? というのはありますよ。展開も内容も最初から最後まで滅茶苦茶なものを見た人が犯罪は犯さないかも知れませんが、心に病気を抱えたらどうするのか? と。 芸術が自信を失うということですが、信頼性が揺らいでいるということですよね? 例えば一つの部屋でなにか一つの音楽を皆で聴こう。その時に 「あんたがたどこさ」 を皆で共有していた時代と違い、今は好みにより分断が起きると思うのです。音楽がまとめるものでなく、分断を深めるものになっている。それで批判はやめましょうと言い始めると、無難な感想しかそれぞれに言えない。一人が歌詞が気になると言い始めると、歌詞のないBGMにしましょうと音楽を担当する人が決める。絵画も音楽もあらゆるものが今はそうです。 若い活発で健康な人は芸術より、異性やスポーツの方が当然のように楽しくなりますね。熱がないものを、健康者が求めることは変な話ですから。 ネットの荒らしの放置も熱がないことの反発へのニーズに応えている面もあるのかも知れませんが、その有効性に関してもどこまでのものなのかは、疑問です。 朧月夜さん、スレオペとかは関係ないから このスレッドは、創作サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所で、詩サイトの住民なら、ときどきは詩とは何かと感じることもあるのだから、わざと荒らさないかぎりにおいて、詩とは何かの文字を繰り返して書き並べているだけだと何も感じていないのと同じで、つまり、悪用?しないかぎりにおいては、切り口はひろいから何でも話してもいいのかもしれないけど、切り口をひろげすぎて、より悪くなるのなら書かない方が身のためだし、中からういういしい命が生まれて不死鳥のごとく生まれ変われるのならやはり何でもいいのかもしれませんね。なので、スレオペとかは、関係ありませんので悪しからずなのです。 コメントしたかったのは鏡文志さんの詩のリレーと朧月夜さんの連詩について この2つって感覚的に違いを書くと、私は連詩は詩ではないのではないのかと 疑念を持ち続けているのですが、愉しいですよね。そして、詩のリレーは、 その疑念をある程度、薄めてくれながら愉しさを維持しようとしているのでは と感じましたよ。 具体的には、やってみると分かりますね。そして繰り返して連詩することで 文字の本質は字書に書かれた文字ではなかった子どもの頃を取り戻すことに なっていけば、現代詩も読めてくるように感じますね。うまくいえないけど。 そういえば、そのむかし、詩のフォーラムというロストワールドのサイトに 連詩の部屋というのがあって、わたしは、そのときは連詩の部屋のスレオペ みたいなことをやってその部屋も含め何度か荒れてしまい手をひいたことを 今、いきなり都合よく思い出しましたー(^_^)。 連詩は愉しいですよ。 初めまして、朧月夜様 詩でリレーをしようと言うような言葉の遊びを繋げるそこで輪を作ろうとしている。それは噺家が言葉の遊びで輪を作ろうとする姿に近いと思うのです。芭蕉の時代も詩人同士の共作がありました。確かに分野としては区分けはありますが、共通するところはあると思う。 他人の動画をそのまま貼り付けたり、文章をコピペしたり、創作性が認められないものが一般ユーザーは大半だと思うんです。そこで自分の文章言葉だけで勝負しようと言う姿勢だけでも見せている方々ですから、質はやはり他の一般投稿サイトと違うと思いますね。それは創作系は他にもありますが、文芸サイトだけあって、古典を一応は意識してると思う。それが出来ている創作サイトって中々ないですから。 利益にはどこまで繋がってるか? どちらかと言うとマイノリティに属するものだと思いますが、マイノリティから広がっていくのはエンタメの基本だと思うし、ここから世界で通用する才能が出てくることもあると思ってます。後文芸サイト系では他のサイトよりパワフルが許容されていること。パワフルエネルギーはアートの基本ですから、それが許容されるのは健全ですよね。実は私過去に他の文芸サイトで過激なものを書いて、ビーレビに行ってくださいと言われて過去の全部の詩管理人に無断で削除されてしまいました。 文学サイトは門外漢ではないか? と思う時もあるほど私はコメディーエンターテインメントが好きです。色々作品を読んでいると、噺家がいっぱいいるなあと。普段話してると、一人で話にオチをつけられない人の輪の中にいる。それは『あ』と相手が投げたボールに『い』と返すようなものだと思う。だけど噺家というのは、自分で最後まで話にオチをつけて、それを聞いたもう一人の噺家がまた新しく最初から最後までオチをつけて返すようなことだと思うのです。上手い人に囲まれていれば自分も上手くなる。環境は大事ですね。僕も利用し始めてから上手くなってる実感があります。 詩にコメントを入れない人を『俺様』度で表すようなことをこのサイトではやってる記述をどこかで読みました。コメントするかイイネするかも、自分の実人生実生活とうまくリンクするか、接点を見つけられるかみたいなことだと思う。接点を見つけられるものは積極的にアクションしています。 好きな詩人は田村隆一、中原中也、チャールズブコウスキー。 詩人のイメージですが 「嘘偽りをつくことを躊躇い、正直であろうと務める真面目な人」 というイメージがあります。美文が書ける人を詩人だとはあまり思わない。視覚的なイメージを嫌う人が多い印象もありますね。嘘をつかないとは思わないな。嘘をつかないというのは自省がなく、正直でない気がする。腹が正直であることが第一で、口第一じゃないかな? そんな感じです。 俳句の部屋で中心的にご活躍している一人の森田拓也さんの作から 始まるコメント欄から、こちらに引っ越してきました。 https://po-m.com/forum/pointview.php?did=385480&from=menu_d.php%3Fstart%3D0 さて、森田さん、素敵なコメントありがとうございます。 パラレルワールドをSFと決めつけるのは勿体ないよね。 リアルタイムの意思疎通は私らの今の科学では無理でも 先に行ってる地球外知的生命体は到達しているのかもで 今のAIはまだ生まれたばかりの赤ちゃんでもそのうち 一気に素粒子の謎の時と空間を解き明かして量子ゆらぎ を妄想から現実社会で利用可能ななんだか知らない何か 例えば、遠く離れた空間の知的生命体との意思疎通の 「電話」とかに変わっていくのでしょうか? 大切なことはいま現在は無理な話しなので(今がチャンス)、 とくに日本人は外の良いものを吸収し真似て改良することに 長けていたわけですから、機は熟したのだからそろそろ みんな本気を出して、最初は抵抗があろうがなかろうが 理論的な根のブラックボックスの中身は理解できなくても、 AIを取り入れた世界にいち早く染まりlearning by doing。 私は外界のアナキストだから良くわかるのですが、でないと、 最後は以前の(今はもっと進んでいる?)1%の富裕層と99%の 虐げられた庶民の構造のアメリカ人の悪いモノマネに堕ちていき サヨクの波に飲み込まれてしまうのではないのでしょうか。 多くの勉強不足のネット詩サイトユーザが陥ってしまうのは、 詩の本質を作る努力をしている詩書き人と単なる詩読み人は、 同等という「悪しき平等」にずぶずぶになっていて(楽だから)、 本来は作者と読者の間には、渡るに渡れない天の川くらいの 差があるのにということを理解しなくちゃ と 自分にいつも言い聞かせているわけなのです. でないと、法政大学教授の島田雅彦先生は影響力ある作家で どちらかといわなくても根っから楽しいサヨクなわけで、 どちらかというと、私は、彼の作品をアフォリズムとして、 読んでしまうけど、大転生時代を時間があれば読みたいかな? たぶん、読後感は、ここに書いた感じになると思うのですね。 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD047B00U4A001C2000000/ 発句 きっと地球見てる人ゐて天の川 拓也 発句 孤独だわ令和のわれら宇宙人 らどみ 付句 されどらどみは宇宙船もつ 拓也 三句 花火みて侵略止める宇宙人 拓也 四句 核兵器みてやはり侵略 らどみ 五句 方法は心を変えるmental アウト らどみ おぼろんさん、こんばんわー 詩を語るときはどうしても周辺部を意識しないといけないと わたしは、そういった強迫観念みたいなのあります。たぶん、 むかし居た(今も名前変えているかもですが)、どうしてか、 その人の前では、頭の上がらない姉御さんが、言ってた感覚、 詩の周辺部をうろついているだけというところから見てみたいというのが あるんだと思います。姉御さんのお名前は、確かヒグチさんって言ってた。 まだ、詩の周辺部におられるのだろうか?。ふと思い出しました。 おぼろんさん、誤読してたらすみません。 ふと感じ閃いたものですから。√ゝ 詩はやっぱり先ず、自らの魂の奥底に在る普遍の大洋からイメージの核を直観し、それからこの世界次元の言葉に翻訳対象化されるものだと僕は想いますが… 諸相なるものが色々と在るのは、それぞれがそれぞれの個性で掴み取った普遍の諸相様相の在り方から現れ表されるものだから ではないかと。 おぼろんさん、こんばんわー 222を再読したけど、お昼休みに斜め読みしてから書いた感想とは ぜんぜん違うことを書きたかったのかなというが2度目の感想です。 とても難しいし 詩を読む側の詩読人としては、そこに既に読む詩はあるんですよね。 ある日、あるものを作り出す側になるなんて、今までなんと愚かだったのか と なんだかわからないけど、余分のものが全く無いとしかいいようもない現代詩に 会ってしまい、今まで書いていたのはなんだったのかという気持ちになったこと。 それからも、何度も何度も殻を破ってきたつもりでも、なんだ、詩は才能なんだ と 親ガチャや環境や肉体や知恵やその他もろもろ、書けない理由探しも、一段落して 気持ちが楽になっていたのかなあ。 結局、こんなスレッド立てても、おぼろんさん1人とのコミュニケーションも 取れないわけだし、詩は何かなんて、考えるのは100年早かったのかなぁ ま、この前、お寿司屋さんで食べてたら、しゃこの方が高くて、驚きました。 最初から、凄いやつを書こうなんて思わなければ、なんか書けるのかな? 詩はとても難しい 詩ではなくても、身の丈にあった、なにかを描いていこうと思いましたよ。 おぼろんさん、こんちー。お昼休みにアクセスしています。 たぶん、おつしやつていることは「詩とは何か」に通じているのですよね。 だからさらに細分化のすり合わせなのだろうと勝手に思っていたりですが、 今まで、感覚で捉えていたところに、詩と詩情、詩心が細分化され始めた のかなと思いました。 私は「冷めた人」なのだと自己分析してきましたが、あえていうとですが、 細かな言葉の定義のすり合わせからしないと、科学サイトの自分としては たぶん理解できないのですね。私にとっては言葉を使うことは難しいです。 ありがとうございました。 おぼろんさん、こんばんわー 歌詞ですよね。さあ、飛び出そう。 歌詞、歌詞、歌詞。歌詞、歌詞の歌詞🎵 しかしかしかし、しかし歌詞🎵 書いてみても、なんだか、よくわからないです。 私自身は、詩≠芸術、詩≠文学なので、 詩の中に歌詞があれば、歌詞≠文学ですね。 私は今の歌詞の創作は曲先だと思うので、その場合、 もしかすると歌詞は詩ではないときもあると思うけど、 詩に曲を付けても歌詞になるのだから歌詞は詩でも良いと思う、、、 というか、詩と曲、曲と詩が同時に出てくる場合は、、、 難解だけど、これは、、、 セットで歌になるので、歌詞は歌です。うん、当たり前。 Lyrics are songs. 今、出来ることは、それくらいかな おぼろんさん、こんちわ いつも読み込んでいただきありがとうございます。 お昼休み中なのでほとんどあんまり書けませんが お礼を兼ねて短めの直接ベタ打ちいたしますので、 誤字脱字等、あったら申し訳ございませんでした。 おぼろんさんの文章から詩とは何か学ぶことが多いなと思います。 たぶん、今まで生きてきた世界が違うけど、言葉や文字に対して 真摯に対峙してこられた方なのだとリスペクトをもって読んでます。 だから、以前も違和感のあった「詩壇」という使い方も、何か 別の意味合いを含んで、今回も使っているのだろうと思うのです。 「ネット詩壇」ですか。概念としては、おぼろんさん的使用法で 私の通過してきたネット詩とは少し違う気がするのですが、これ はこれで、突き詰めてみると、今の詩サイトの何かにぶつかる ようにも思います。 仕事終わったら、歌詞のことで、何か書けたら、書いてみたいです。 ではでは、、、 おぼろんさん、おはよう。。。です。 毎回、面白い切り口で、カッパえびせんみたいに、 返信したい衝動?にかられます。今回もありがとう! 今回、「辞書詩」なのものを二つに場合分けされたのは とても興味深かったです。たくさんあるなかで詩の5 つの類型を造語してみたりしているのは何故なのだろ うかと自分に対して途中から疑問を投げかけたくなり ましたよ(良い意味で)。全部、経験からの思いつき だけで綴っているのですが(だからといって、題名の とある人が私だけではなく)おぼろんさんに「辞書詩」 を二つにしてもらったおかげで、「辞書詩」についても もっと深めて、これはこれで、さらに韋編三絶して、 より深く、今後さらに追求してみたいなと思いました。 今、言えることは、時系列としての5つでも、同時だ という矛盾があるということ。既に答えているところ もあり、「人は矛盾した生き物」で、終わりにするつもり もなく、ブロンフェンブレンナーらの同心円を意識して 最初から書いているわけですが、「政治家の言葉は民に 浸透する力が、子どもの言葉は最初は身内とのやり取りに ある」ので、別に同じ時代に生き同時進行でも良いのです。 ゆきゆきてポエムで、以前書いた「公と私」に近いのかな? (DJの内藤忠さんのしたことはあの時代仕方なかったこと なんだけど、個人的には改めて内藤忠さんに感謝します)。 あの時代というのはむかしのネット詩サイトのシスオペの ポチさんが、当時、やむにやむをえず?、詩サイト作品を DVDに焼き増し、谷川俊太郎先生に送ったこと。ポチさんの ご自宅が荒らされてサーバーごと盗まれたこと(私では無い) 。とにかく、今の詩サイトは変わった人が多いと思うけれど、 あの時代は、大きく変わった世の中だったと思う。懐かしい。 谷川俊太郎先生がブロンフェンブレンナーだとは思ってない けども、詩人は細かいところに気付きながら、俯瞰した目を 俯瞰心のある書き方が出来る人たちなんだろうと思います。 ITやDXやAIについての部分で前の文で加筆する と、 イラレ等を使って作業するときには、コッホ曲線の神秘と いうのか、数学的美意識を考えているデザイナーは少ない というか「それはないでしょ」という感じかなぁ〜 おぼろんさん、こんばんわ。 再読しました。 ログからあと違いを感じたのは5つのうちの3番目の「辞書詩」。 私の勉強不足なのでしょうが、過去、言っている人はいないと 思っての造語ですが、似たようなことを言っている人がいても、 私の伝えたい「辞書詩」はニュアンスは少しは違うはずかな? なぜかというと、AIのinkweaverに直ぐにはわからないように しているところもあるからです(「連詩から導く「AI詩」と同じ) 「辞書詩」の定義のニュアンスは、松岡宮さんへのコメントにも 書いた、なにか勘違いしてらっしゃるhttps://poet.jp/photo/4427/ ことなのです。普通はその人の経験からの言葉がそのまま詩とは さすがに思いませんが詩を書き始めるともっと良い詩が書きたく なり、詩を書くために(俳句を詠む為に)歳時記をめくってしまい 知らない言葉とたくさん出会えて充実した時間を過ごせても、、、 記憶の定着が血肉になっていない時点で書いても生活に陶冶された 言葉でもないのなら、単なる文字の羅列なのではなかろうか と 習い事として、詩を書いているのなら、それでも良いにしてもー、 書かれた文字は詩なのだろうかな。書くことで環境変わりましたか? 書くことで価値観変わりましたか?明日に次の日に繋がりましたか? 私はいまだ詩が書けないし、詩人ではないということの説明ですが、 詩の本質を書きたいならば、真似ていては何も残らない 詩の本質に触れたいのなら、自分の作品と対峙してみないと、、、 なんて詩を読む人でしかないのに詩人に文句の多いサポーターです。 私の書いてることはなんだか矛盾だらけなのですわ。すみませんね。 1 2 3 4 5 6 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。 ![]() 0.27sec. ver 050714.4.0 | スレッドニュース |