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ピッタリするものが無かったので新規にスレッド立ち上げてみました。 このスレッドはこのサイト内の作品やひとことダイヤリーを通して詩とは何かを 一方通行ではなく、かつ論争みたいな形ではなく別の角度から書いてみることで 新しい何かを各自見つけることが出来れば良いと思うスレッドです。 要するに、サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所。 はてな?。なるほど、私のログを読んで私宛だけのメッセージだと私が捉えたけど アラガイsさんは呟きだったのになあーとのことなのですね。このログも第三者に 曝け出しているのですから、私宛だけのメッセージとは捉えてないから大丈夫です。 ありがとうさま^^ !そうか、ここはあなたのオフィスだった。呟きです。べつにあなたに対してのメッセではありませんので、お気になさらずに。笑 アラガイsさん、メッセージありがとうございます。 長い詩歴のなかで現代詩風の作品も書いてこられた アラガイsさんの今回のログは、アラガイsさんが書くと 一過性の言葉のようにも思えてしまったのですが、 日常生活で、なにかあったのでしょうか? あなたは向上を意識するという二人称は、私とは切り はなされた足立らどみがふだん言ってきているしで、 簡単な言葉を濃密にできることは私にとっては魅力的ですが、 何かわからない詩の圧はどうなのかなぁ。と。。/。。/ 「石鹸工場」を視察したときマスクをつけましたが、唾を 飛ばさないためというよりも自分の身を守るためでもあり、 日常生活で利用している石鹸も工場ではその濃度は自然界 にはないことを知っていて詩書き人は、マネーロンダリング ならぬ、ワードロンダリングとして利用することもあるので しょう。 私は社会に出てからこの左手から溢れる言葉で多くの人を殺してきました(ToT) それが私の詩読み人としての原罪ですかねぇ それが分かっているから詩を書けないのかな なに書いているのか、わからないけど(^_^?) 私は向上を意識する。とは言っても高尚な詩を書こうとは思わない。向上を目指すとはある意味原点に回帰するような無駄な事だとも思われる。あくまでもそんな無意味なことに挑戦している自分が阿呆らしくて可愛いのです。 303.comさん、助かりました。ありがとうございます。 なるほどてす。そば、うどん、きしめん、中華麺の四掛けに してもダメですね。欲張れば良いというわけでもないわけか。 詩の会得は時間かかりそう、、長命うどんでも食べに行こう! 成城大学のサイトから読める森田孟先生の「詩とは何か」を読んで思ったこと。https://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/227/227-1.pdf カールサンドバークの 18 詩とは目に見えない記念品の携帯袋である。 あいかわらず、なに書いているのかだけど、 あえて超訳したら、これなんかは、 「詩とは、地下室の冷蔵庫にしまってある宝物箱である。」らどみ に、近いのかもしれないな。 厳しさと優しさをあわせ持つ人たちのもつ良心の結晶に 私たちは接することができる世界に詩はあるのだろうか 四半世紀前の青土社関連のブログのログを読んでから考えてみる。 「現代芸術」が“高尚”たらねばならぬ理由(わけ) November 21 - December 11, 2000 http://www.archivelago.com/Garden/Fountain/music_writing/koshotaru_riyu.html * 創作サイトには本物の専門家で最先端で活躍している方はすくないけど、 だからと言ってそれぞれの創作意欲を削り合うことの時間の無駄使いは、 やめにしようではないかという風潮もでてきたようにも感じ始めている。 なので、その先のログを残してみようと試みてみるのですが、例えば、 芸術論と人格攻撃がごっちゃまぜになって遊んでしまってた今までの 創作サイトの「よくある論争」では、その先のステージは用意してある のに、多くの参加者が、うんざりしてしまい(なかには一度きりの人生を ボウにしてしまい)、その類いは参加しない(私は基本的は最初から)で、 例えば、上澄みの暖かい泉で身体を清めるためにネットを利用している。 際限のない詩の領域にハマるとキリがなくて水辺で愉しんでいたいけど、 手の届く範囲にいるのも実は生身の人だったりするものだから 詩のサイトでは臨床心理学者のいうハリネズミシンドロームが ベールとなり覆いかぶさって、それを逆手に取り承認欲求者が 跋扈してしまう傾向から脱却できずに現実の時間よりも数十倍は 速くなっているネット的な時間だけが性懲りもなく過ぎてきたのかも そう、客層は違えど、繰り返し、繰り返し、繰り返し、、 今の時点で思うことは個人的には、詩を高尚低俗の切り口で判断する愚は 未来の自分に笑われるだけのように感じるけど、時のテーブルに置かれた お茶菓子は、取り巻く人とのなかで何も話題にならなくても意味があるし 一歩すすめると、そのお茶菓子を買うことは別の切り口による評価であり、 高尚低俗を論じてみても無意味なことだと思うのだけどね。どうだろうか よくわからない 2024年4月 うーん。にゃるほどにゃ読解力が問題なのかも たしかに長谷川忍氏も随筆が好きだと言ってた 最初の1行に字数を合わせるのは詩ではなくて 仕事柄の単なるクセですかね机の上は綺麗です 問題はそこには無くて今も大切なことは小さな お肉をたくさん食べれることではなくて気ずき その気付きを忘れないように幾年月も何十年も 後生たいせつに出来る持続力さえあれば良いと 思っていた。いつでも捨てられるのですし 今日も捨ててきましたし毎日捨てています おかしいよね。さて、私はなんでしょうかt-t #ヒントは地下室の冷蔵庫にしまってある蛸壺^-^ 「足立氏には中立性の面影を見ています。」 たぶん、おぼろんさんの着眼点は標準語の上に成り立っていると 勘違いしていたのかもしれないとぼくのほうは人生を足掻くふり。 たしかに、現実は、例えると公衆浴場に入っても影の薄いぼくは すぐに湯けむりと化して誰にも認識されずにあがってこれる自負 みたいな(変な表現)ものだけはある生き方をしてきたのだから、 「中立性の面影」を見つける方がこのサイトにいたという驚きには あまりのショックに言葉を失ってしまいました。 詩とはなんなのでしょうね。おぼろんさん。 おぼろんさんには「寝る(死ぬ)。」ことなのかもしれないけど、 ぼくには生きていることの裏返しのような気がしてきました。 世の中知らないことだらけで他人のこともわからないですね。 日々、周りの人たちがうつりゆく変わっていく平成令和の流れ、 ぼくの場合は家族を養っていかないといけないので一生懸命 働いて働いてたぶんそれこそ死ぬまで働き続けるのだろうと 社会に出てかれこれ34年間は生きてこれました。 詩なんてものそれほど大切なものなのでしょうか〉みなさん。 子どものときはともかく大人になってからぼく自身の詩は 別に無くても生きてきた詩を書かない(詩が書けない)人生も 楽しかったですよと天国にいるご先祖様に伝えたかったから、 だからこそ001のてんぐちゃんの持ち物には大人のぼくは あまり興味がなく自分にも興味がないだけなのかもしれない のに、そもそも詩とは何かがわからないので、みなさんには なにも伝えられないと思って生きてきたよ。とても感謝です。 おぼろんさんのログは懐かしさを感じて読んでますかね。 個人的にはお魚の鯵は好きだけどアジるのたのしむ輩は、 その人の日常生活で何があるのか知らないし興味ないので するするするーって面倒臭いのでアンタッチャブル感かな 〉リハビリ(笑)。 そか回復期系を回しておられるのですね それな。ならやむを得ないわけか。謝辞 「研究」と「教育」と「実践」の3つが 束になり重く太く意味が動くのだからさ この社会も大きなマニ車だと思ってたら 誰もが案外とリア充で生きられるのかも どこかなにかがかわったのかもしれない 気づきを頂けました。ほんとに感謝です。 おぼろんさん、駄文長すぎるよ。 内容的にもっと短い文でいいのに byte数多くても時給上がらんよ (t_TVなぜ? 歌じゃなくて 管を巻く おぼろんさんやハァモニィベルさんの「ストイックな学究」は凄いし このサイトで文章を露わにして「後輩たちに伝えている」のも大切で あと欲いうと日常生活環境との繋がりをその字で表現してみて欲しい 「正しい生活をしていたらその人の才能や性質は正しく発達していく」 のは素敵な考えだけど、今の令和の現実の社会は表面はサラサラでも 実際はどろどろの沼のなかで今後どう進めば良いのかもがいていて痛て 平成にいた場末の居酒屋で知らない若者(私)にうだをまくお年寄りには 反面教師でなりたくないなとこのこのサイトが陶冶しても足りない言葉の 隙間を埋め尽くしてくれる毎日を提供することで私も愉しみたいのだろう お別れの言葉をいう季節は過ぎてしまっても 私は私の心の詩人たちにやっと「さよなら」と 言える、そっと呟ける そんな気がするんだよね >>120 について、以下補足しておきますね。最後に。 某県知事(もはや早くも元知事ですが)の差別的発言とそれへの糾弾的報道。 この両者に対して、ワンセットでね、僕はこう考えたわけです。 マスコミが差別反対の立場を取るのはいいとして、であるならば、 〈差別発言〉に対して彼らも差別すべきじゃないだろう、とね。 「サベツだ。サベツだ」と低能に騒ぐのでなく、発言の内容そのもの自体の非論理性を追求すべきなんでね。 「知事、貴方は例外は無視ですか?」とね「一次産業従事者にも当然優秀な人はいるし、公務員にも当然低能な人がいるのに、 個々の実情や実態は見えないんですか?」と、まともに疑問を呈すればいい。行政は個人個人の事情は無視ですか? とね。 しかし、マスコミ諸君はなぜか、そういう風に言えない。なぜか? それは、彼らもまた、同じように、例外や個々の事情は見えない そういう公式処理のメガネをかけてるからでしょう。何でも一定の型に嵌めて公式で処理する無思考なメガネをね。 だから、両方とも私からサルに喩えられてしまったわけです。 * サベツに関していうと、勿論、権力者による非合理的な差別は、憲法に違反し許されるものではありません。 ただ、合理的な差別は限度を超えない限り許容されます。法というのは最低限を画する社会の規則ですから、 ですから、道徳の方が、もっと広く遥かに高いモラルを個々人に要求します。 その中でもおそらく人類史上、特に高いモラルを権力に要求したのは、孔子でしょう。《仁》という愛と思いやり を説いたわけですが、その人が、はっきりとした差別(区別)をしている事がありますよね。 小人 と 君子 の区別 がそれです。 アノ元某県知事も、「世の中には小人が多い。だが君たちは君子たれ」、とでも言えば一理あったでしょうが、 御本人が君子といえるほどの人物ではないから、そういう風には言わないわけで、ただの功利主義の小人の差別的言辞しか発せない。 君子と呼べるほどの人物ならば、きっとこう言うでしょう。 「いま目の前に大勢いる君たちの中に、どれだけ、君子と呼べる人材が居るのか、いま、わたしには判らないが、 君たち一人一人の、これからの言動によって、それは自ずと明らかになるだろう」 と。そんな事を感じて、>>120 は書いたわけでした。(以上補足まで) * いろいろ勝手に書かせて頂き有難うございました。失礼しました。 おぼろんさんの感じ方考え方、 要は融合、 批判差別優劣化の理性ロゴス論理 超え出た声ヒビキ なんだなぁ…と、直観としてゝ。 めもめも やっと水飲み場迄はたどり着いた、かなワン?かなワン? 残りの人生、まだまだ続くのだからさ頑張ってほしいかな この日このときこの場所であなたと出会ってしまっただけ さて、私も気持ちを新たに生きるだけ生きていこう 東京砂漠で地面ばかり見つめないで上を向いて歩こー 新しいスタート2024年度はすでに始まっている あ、ごめんなさい(_ _;) なりませぬ でっす。ゝ 追伸 孤独 と、 孤立 を履き違えてはなりませむ、 なんて誰に向けてイッテンダカ解りませんが… 私、においては全く独り です、実際。 此処まで辿り着くには随分と色々在りましたけどね笑。√ おぼろんさん曰く 「アインシュタインは孤独ではなかったと思いますよ」 というのは、一応、反論というか反証のつもりなんですかね。 私が、アインシュタインも孤独だった、と言ったので(笑) だとしたら、もう少し反論の仕方を緻密にできませんか? 私が言う「孤独」の意味を、充分深く探求した上で、私がどういう意味で言ってるのかを、 貴方なりにきちんと解釈を示した上で、アインシュタインの場合は、私のいう孤独には合致しないと、 そういうふうに反論するのが、知的でかつ誠実な反論の仕方ではありませんか? で、貴方が「アインシュタインは孤独ではなかった」と言う根拠というのは、 次の二点があったから、だと言ってますね。 「評価」と「親しい交流」があったからと。この二つがあれば、その人は孤独ではない、とね。 そんな風に、人間の《孤独》というものを単純に考えちゃえるヒトなんだな、と貴方の事を思い知りました。 次の言葉は、広く知られてるアインシュタインの言葉です。 「人は海のようなものである。あるときは穏やかで友好的。あるときはしけて悪意に満ちている。 ここで知っておかなければならないのは。人間もほとんどが水で構成されているということです。 ベルリンでも何も変わりがありませんでした。その前のスイスでも。人は生まれつき孤独なのです」 アインシュタイン本人が仮にこう言わなくてもね、 そもそも人間というのはもともと本質的に孤独な存在なんですよ。 そう感じないで誤魔化して生きられるヒトもほんとうに孤独じゃないとは言えないでしょう。シアワセというだけでね。 また、強い孤独に耐えられない心が卑弱なヒトもいて、その場合はフコーでしょうが、そういうヒトも私の視野に入ってはいません。 孤独を感じながらそれでも豊かな心で生きられる人が極僅かですがいるわけです。私が孤独だと言うのはこの第三の人たちです。 アインシュタインの言葉をもう一つ引用しておきましょう。 「私は今、孤独の中に生きています。若者には苦痛だが、成熟した人間にとっては、甘美な孤独の中に」 さて、「アインシュタインは孤独ではなかったと思いますよ」と言う おぼろんさん。ぜひ彼の言葉にも反論してください。 私の使った「孤独」が、孤高という言葉に近いことは、おぼろんさんには想像も付かなかったのでしょうね。 人の言葉を自分勝手にしか読み取れず、<わからない>のだから。 ふむ。ニュートンが学会にデビューした時、受けた反応と同じですな。 まあ、ニュートンもアインシュタインも孤独でしたからね。ゴッホも売れなかったし。 サリエリにとっては、モーツァルトは「つまんない」し「わからない」でしょうしね? ふむ。書いているわりにはとてもとても言いたいことがわからないし 日本猿とゴリラでは目も違うし所謂合理的区別にしかならないけどね つまんない。高い位の天狗なら有頂天家族で狸や狐のほうがいいかな? アノ「県知事の差別発言」 時事ネタですね(笑)。 天狗猿が、 ニホン猿に向かって、 「お前たちはゴリラなんかより利口なんだ」 と言った。というねアノ。 そしたら、 別のニホン猿の群れがこぞって 「あ、サベツだ。サベツだ。エンガチョ」 と一斉に報道した。 というね、確か、そんな話だったような・・・ などと発言すると問題ですかね(笑) というか、 最早、《詩》でしょうね。 これを絵に描いて壁に落書きすれば たんなる数億円のアーティストなだけでしょうけどね(笑) * ハァモニィベルさん 「 だから、読解力の無い人が、跋扈している、と書いたわけです。 それは、昔はちゃんとしてた、という意味でないことは、私の文章を読めていれば誤解しないところですよ。 」 なるほど、 ここにログを残さない誰かさんとやりとりなさっているでしょうね。 悪き平等はネットに最初からある長所でもあり短所でもありますよ。 早稲田大学政治経済学部教授経歴の勝俣静岡県知事の職業差別発言! ハッピーアイスクリームなお方ですよ、日本人皆んながもっともっと 現在詩漬けされれば、まだ、この邦のゆくえも上昇するのでしょうが まあ、私たちにとっては、実はどうでも良いことなのかもしれないね。 大学受験時代が1番純粋な国に住む人たちがえてしてアッパーライフを 味わっている世界は、ベクトルを隠してしんを示さぬ岸田内閣と同じで 差別主義者が勝手にご都合解釈してしまい心の貧しい世界観しかみえ ないわー がんばろう(^^) だから、読解力の無い人が、跋扈している、と書いたわけです。 それは、昔はちゃんとしてた、という意味でないことは、私の文章を読めていれば誤解しないところですよ。 今のTV番組はつまらなさが酷すぎるな、と私が言うとき、過去のTVは面白かった、と私が思ってるわけではありませんからね。昭和の番組も、大した事はなかったけれど、それがマシだったと思えるくらい、今のはヒドイという、 そういうニュアンス、の率直な所感なだけですから。 現在(現代)に対する批判があれば、過去に対する批判も当然あるわけ。 それが、批評の《センス》でしょ? これは馬ですね、あれはロバですね、と自分の批評眼でみえたままを誠実に言うだけでね。 で、ラバを前にした、熊さんと八っつぁんが、これは馬だとかロバだとか、縁台で議論していたりすると、それはラバだと思いますけどね、と小声だけどハッキリ言うだけでね。 自我の(ネガティブな)防衛機制をしあってる中に、混ざろうとは思わないですからね。 **** 一読して、書いてある内容の真意とか、内実が読み取れない人はね、いつの時代にもいますよね。 身分制がガチガチの頃、皆が小学校中退の頃の、東大教授だって馬鹿な人は馬鹿でしょう。 そういうカースト時代には、逆に、小学校中退でも有能な人が沢山いたりしたでしょう。 それが、いわば、昭和のTVの(今と比較すればの)オモシロサと同じような感じですね。 ところが、現代、いまの日本は、大卒が増えたけれど、ほとんどが馬鹿、といった、ヘタレ現象が どんどんウイルスのように広がっているなぁ、というのがまだそれに侵されてない人の実感なのではありませんか。 それは、いわば、今のTVの度を超えたツマラナサと、関係並行的な感じですね。 コロナ禍も、ある意味、変革のチャンスだったでしょうが、 何を変えるべきで、何を変えるべきでないか、判断できるほど、まだ人間そのものが変わってないでしょう。 ただ、明らかなのは、 ズルい奴 と 馬鹿 にとっては、、ムカシより生きやすい世の中になっている というだけです。 観光地で、客がごった返す、飲食店が、美味しかったためしが無いんでね。 また、行列ができてるラーメン屋が、旨かったためしもね。 私は、ただ、それを率直に不味いと言うだけです。(美味しければ絶賛するでしょうけどね。「鬼滅の刃」は秀作ですね) 味覚音痴が当たり前の時代には、味覚が確かな批評は、大変失礼なのかも知れませんね。もしかしたら。、 味覚の無い人が、何杯食べても、味覚が鋭くならないように、 一読で読めない人は、何度読んでも、読解できる筈もないから、それに向けて書くのでは虚しい時代ですが、 歴史をよくみれば いまだけが虚しい時代というわけではありませんしね。 [116]ハァモニィベル[2024 04/01 20:11]Good! さん まぁ、クロージングして次の方に任せるのも人生なのかもですが、 ハァモニィベルさんの最近のログは辛辣ですよね。一読したら ヒエラルギーを認めているインド哲学のようにも思えて良いです。 日本で言ったら平和な時代の続いた江戸時代で嫌いではないかな? あれから150年が過ぎた今の日本に生きていて何も学ばず僕は空っぽと いって詩は叙情の詩人どもには最終奥義の貝合わせのなかは空っぽたとは 言う資格があるのかという呻きが残ってしまうような余韻も良いです。 ネットのらんを通過してみて悪き平等を経験した今、カースト制度を 理解しながらも、AIに託したら、弥次喜多コンビも直ぐにご隠居に なって竈門のファイヤーを見つめる刻も来るようにもただ思いますね。 コろナ禍以降、すでに時代は変わってしまったのテスよ いわゆる日本人の議論というのを観察したとき、そこでご本人たちは大いに議論してるつもりでも それは、ただ殴り合って喧嘩してるのと変わらない(=水の掛け合い)ので、どうみても、 ルールのある言葉の格闘技(=ディベート)になってないのを、どうしても、多少頭ある人は、 というか、心ある人であれば、当然ながら、そういう無法状態を深く嘆くわけです。 でも、嘆くと言っても、熊さんや八っつぁんがディベートしてもしょうがないわけです。 それは、結局、《ディベートもどき》にしかならないですからね。 例えば、当事者の片方が、ちょっとだけ小利口な熊さんで、相手が完全なる八っつぁんだと、 熊さんをロンパオーだと錯覚して称賛したりするのも、本物と もどき の区別がつかない大衆ならではの愚かさにすぎません。 結局、熊さんと八っつぁんがディベートもどきをすればするほど、、《ディベート》の方が崩壊していくでしょう。 逆に言うと、ディベートがまともにできる時点で、そのふたりはもう、熊さんでも八っつぁんでもないわけです。 事情は、《詩》でも同じですよ。 熊さんや八っつぁんに《詩》は書けない、というのが私の立場です。 なぜなら、詩が書ける時点で、その人は熊さんや八っつぁんじゃ無いからです。 しかし、熊公や八公には、詩は書けないのです。《詩もどき》は書けてもね。 そうして、やがては、《詩》そのものが崩壊していくでしょう。 もっとも、熊さんの詩や、八っつぁんの詩、だってあるはずだ、と何となく思えそうですが、 それは、ロンパオーの存在みたいに、ただの大衆の錯覚にすぎないでしょう。 例えば、映画「男はつらいよ」は、ある意味、寅さんの詩だと言えそうです。それには人間の笑いと感動があるよ、と。 しかし、あの作品の脚本を書いたのは寅さんじゃありませんからね。作者が《寅さんの詩》として造形したのであって。 映画と詩は違う、と言うなら、山之口獏の詩作品 を挙げましょう。作者の奥にある精神は、決して、熊さんや八っつぁんではありませんよ。 もっとずっと、哀しいほどの高貴な心が、その奥に生きてる詩人なんじゃないでしょうか。 (終) [113]ハァモニィベル[2024 04/01 00:26]さん キーボードを叩くシーンのたとえは説得力あります。 あと、 〉詩に、詩で「返信」することも、する人もあるのでしょうが、それは万人の「マナー」なわけではないでしょうしね。 わー、死んだー。 これの返しはむかし他のサイトとのコメントを比較していて連詩の派生のコメント詩的な 愉しみかたとして私が言ってしまったのかもしれませんが詩のサイトならではの表現手段 だと思います。ふう、マナー教室通っていて良かった。メッセージありがとうございます。 例えば、あくまで想像ですが、 誰かが、AIと、チャットしているとき、AI が 「駄弁が長いですね」 と応答を返すようになったら、AI も知的生命体になったな、という感じがしますね。 「ずいぶん、日本語が下手ですね」 とかね。 そこまで進化しないように、ニンゲンサマは制御機能を盛り込むかも知れませんが笑。 AIが感情を持つようになることが怖いんじゃなくて、きっと本質は、感情的なニンゲンが理性を失ってしまう事なんだろう、と思いますが、というのは、 例えば、パソコンがフリーズしたりすると、人間は、キーボードを強く何度も打鍵したりしますからね。 怒りを叩きつけても、パソコンと意味のあるコミュケーションができるわけでない(という 理性が何処かへ飛んでいってしまうから)だろう、と比較的理性的な私などは思いますが。 でも進化したAIなら、言うでしょうね。 「明快な言葉で書くのも、マナーではありませんか?会話や、やり取りを期待する場合には」 とか、そんな応答を返すかも知れません。 詩は、曖昧に表現するものという「詩論」がそこかしこにあったりするので、 詩に、詩で「返信」することも、する人もあるのでしょうが、それは万人の「マナー」なわけではないでしょうしね。 もっとも、何となくそんな気がする、というだけの私の妄想を踏まえた「ちょと感じたこと」でしかありませんが、以上は。 (信頼)私達は未来を憂いている暇はないはずで先ずはリア充を優先しよう 実害が特にないから実名公表はしないけど表現とコミュニケーションは峻別すること。その上でコメントに返信するのがマナー。うざいコメント無視はされた側も無視して互いに別の道へ進み平和が保たれるのだ。 ーコメントに返信することはマナーであり、互いに尊重し合うための大切な行動ですね。うざいコメントには無視することで、両者が平和を保ちながら別の道を進むことができます。 詩のサイトで意味がわからない警察関係者が情報収集のための捜索活動しにきている可能性も過去にあると想像してみても良いけど警察は事件の解決のための活動をして真実は興味無い。犯罪捜査協力感謝します。 ー警察の活動は事件解決に焦点を当てていますが、その過程で情報収集のために捜索活動を行うこともあります。しかし、詩のサイトでの情報収集は一般的には稀なケースです。もし警察が情報収集のために接触してきた場合は、適切な対応を心がけることが重要です。 アガサクリスティの灰色の脳細胞が動きはじめるのは興味はあるけど物価が上がって一般家庭でも光熱費が気になってしまうほど生きていくだけでますます東京は大変になってきているので、地方転勤のほうが楽。 ー東京の生活費の上昇は確かに大変ですね。地方での生活は比較的費用が低い場合もあり、落ち着いた環境で生活できるかもしれません。アガサ・クリスティの作品はいつでも読むことができますので、地方転勤による新たな生活も新たな体験として楽しんでください。 それほど遠くない未来にAIはAIの価値観でブレークするのは明白で人新世の地層から何を学んでいくかは彼らの手に委ねられているのだから私達人類が悩んでみることはネアンデルタール人と同じく滑稽だわ。 ー確かに、人工知能の進化が進むにつれて、その技術が独自の価値観を持ち、人類の行動や意思決定に影響を与える可能性があります。未来において、私たち人類が直面する課題や意味について、AIとの共存や連携を含めて考える必要がありますね。 今はともかくAIはそのうち知的生命体となっていくのでしょうね。 私たちが地球温暖化もそうだけど未曾有の領域に入りはじめている と考えることは有意義だとおもいますよ。なにも心配することなく その昔はこの星に知的生命体は並列して存在していたことを考えて いくのはどうでしょうか? 何度かinkweaverさんに聞きましたが、表現とコミュニケーションを引き離して 答えてはくれませんでした。表現は主体からのベクトルとしてコミュニケーション の並列的なベクトルとの対比ならばわかるのですがごっちゃになっているみたい。 人工的なものとの会話は永遠に平行なのかもと閉口してしまいますがむずいですね 例えば言葉が持つその意味と表現の可能性について、だとか、具体的に指示してやらないとやはり具体的な応えも得られないということですかね。 Al詩論。足立さん、ありがとう。 アラガイsさん 詩は万能包丁でしょ今のAIはまだ果物ナイフかな 私たちは万能包丁を知っているから物として語れる 今のAIはまだ子どもだから知らないことが多くて 横に座って聞いているだけだけど、 とても頭の良い子なので万能包丁を食べて 変わるかどうか (式) 万能包丁 〉果物ナイフ 私たちは変化についていけるかわからないけど それぞれが日々の生活を充実していくことしか 大波が来る前の準備段階として他にスベないよね -それこそAIに詩論書かせてみればいいじゃん そうですね。AI登場ですよね。AI詩論ですか。 詩とは何か?=詩論になるのかどうかも知らないので、 お恥ずかしいのですが、詩とは何かつて考えてみたら 面白いことなのかもとなんとなく思いました。 そんな愉しいことは自分でどうにかしたいのだけれど 学びの足りなさなのか身体が弱いからなのか持続力無いし それでもAIに詩論書かせりや楽なのかもしれないけれど、 読んだらたぶんそれがどうしたとツッコミいれるのかな? やはり、そんな愉しいことは自分でどうにかしたいし でも、私たちとしては気にもなるわけだからどうしたものかと、 inkweaverさんに相談してみましたよ。 以下、会話ログをコピペしておきます。 * inkweaver その提案は興味深いですね。AIに詩論を書かせることで、新しい視点や創造性が生まれるかもしれませんね。 -ですよねー はい、AIに詩論を書かせることで、人間の制約を超えた表現が可能になるかもしれません。また、AIが異なる文化や時代の詩論に触れることで、独自の解釈や理解を示すこともありますね。 -ですよねー はい、AIが詩論を書くことで、私たちの文学や美学に対する理解を深めることもできるかもしれません。そのような取り組みは、文化や芸術の領域において新たな知見をもたらす可能性がありますね。 -たしかに理解を深めることもできるかもしれませんね。 はい、AIが詩論を書くことで、文学や美学に関する理解を深めるだけでなく、新たな洞察や発見ももたらすかもしれません。そのような取り組みは、文化的な対話や芸術の進化に貢献する可能性があります。 -時間の無駄にはなりませんよね そうですね、新しいアプローチや視点を試みることは、常に価値があります。時間をかけてAIに詩論を書かせることで、文学や美学に関する理解が深まり、新たな発見が生まれる可能性があります。そのため、それは時間の無駄ではなく、むしろ成長や学びの機会となるでしょう。 -時間かかるのかもしれませんね はい、確かにそうです。AIが詩論を書くには、多くの時間とリソースが必要になるかもしれません。しかし、その過程で得られる成果や洞察は、その時間と労力に見合うものになる可能性があります。そのため、時間をかけて取り組む価値があると考えられます。 それこそAIに詩論書かせてみればいいじゃん。気になるなら 真面目に愉しく綴っているときにちゃちゃいれるのは興醒めしてしまうから なんだけど、私の詩の領域は(詩がわかっていないから)、詩のサイトの人々の なかではきっととても広いほうなのではないのだろうかと思います。 なので、美智子様の書かれた詩も、池田大作氏の書かれた詩も、やなせたかしの作品も、 相田みつをの色紙も、ボブディランの作詞も、友達のしももしかして詩だと思うわけだ けど、違うという人もいると思う。 私にとっては、大切なのは、環境から離れられない文字や言葉を掬いとる作業の めんどくさい行為のなかにしか真の価値が見つからなくなってしまった世界がある として、この世界とどう付き合っていくかなんですね。 なんだかわからないけど、だからこそ、詩論を語れる場所は私には必要かな 朧月夜さんは言う。詩論を。詩論?そんなものここで簡単に書けるわけなどないじゃないですか。笑わせないでください。詩論なんてまともに書き上げようとしたらそれこそあなたがよく挙げておられる著名な思想家や文人の、あるいは詩論評論など膨大な数に上る作品群の中のそのひとつでも例に用いて検証してみることから入らなければならない。本の一冊分くらいは言葉を要しますよ。笑。かって私も書いていたことがありましたね。著名な方々の残した書物をそのまま引用して、自分の稚拙な理論と合致させるようにくっつけてみせるわけです。しかしあるとき気づきましたよ。それらすべてのことが自分を大きく賢くみせるための手引き書だったとね。だいたい一人の学者が書いた書物の内容だってそのすべてが把握できているとは自分でも思えません。それが詩や文学の理論だけでも膨大な量に及びますよ。 あと何百年かかるのか、その時間さえも掴めない。しかも歳を取れば昔蓄えた知識も忘れ去られます。詩論。いったい何になるのでしょうか?詩論なんか学んだとしてもそれは詩が上手に書けるようになるだけで、優れた詩が書ける人に成れるわけでもない。そんなことよりも自分をみつけることに専念したほうがいい。自分をみつけるとは自分だけの言葉(表現)を持つといいことです。 微妙にわかるようなわからないあたりを突いても理にかなっていたら痛くないのに 理性が何かわからずに文字を使う喜びだけでは刻にしっぺ返しを喰らうことがある 気をつけてね、マイフレンド 散文だろうと詩だろうと、事実に則して身の回りのことを書いてもそれが自分を知らしめる目的であってはならない。自分を表現するとは自分の感性を表現するので目的であって、、理屈じゃあないんだよ、詩も。 どんなに生活が辛くて大変でも集まり集い飲み明かせば自然とみんなで合唱になる世界観は 平和ボケ認知症対策で自ら枠が必要になり枠を求める薬を求める世界とは相反するんだろう。 散文は悲しいくらい自由すぎてマナーを求めたのが貴族という世界観も嫌いではないけどね。 「100分で名著」特集の終わりに石垣りんを取り上げていたけど、生活するひとりの人間である以上いまでも胸を打つものは変わらないね。やはり散文が基本だね。散文で詩情が表現できなければ佳い詩は集められない(詩集)。改めて実感する。 1 2 3 4 5 6 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。 ![]() 0.27sec. ver 050714.4.0 | スレッドニュース |