サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと(164) ながしそうめん10軒目(79) 連座 萬草庵 参軒目(212) 題名だけのスレ12(748) 恋文(699) システム関連スレ3(762) Youtube配信スレ(249) 貴方の座右の銘はなんでしょうか?(92) エリオットしとりあそび(18)(636) 食べているかい?(487) 韻踏み処(21) 雑談スレッド7軒目(624) 絵本スレッド(180) うっかり寝落ち。 2023年4月(3) 好きな詩人(98) フリーの書き出し集(7) ぼくのわたしの美味しいカレー(115) 日英日翻訳でいい感じのフレーズが生まれたよ(112) ロックって何ですかね(789) 人間なんてららーらーららららーらー♪(357) [分類別リスト] [過去ログ倉庫] [すべてのスレッドを表示] あと、コンビニとか、病院とか、老人ホームに置いてもらったり・・・ そうこうしているうちに、自費出版本が話題をかっさらう日が来ることを 願っています。 by ルルカ new >詩とは何か感じたこと 商行為とは商人が行う行為をいう(定義①) 商人とは商行為を行う者をいう(定義②) というわけで「詩」とは何か、感じる為には 「詩人」とは何かを感じる必要があるようだ。 私は、まず、詩人についてはこう感じる。 詩人とは、詩人になりたくてなるものではない。 そういう人は、詩人ではないのだ、本質的にも根本的にも。本当は。 詩人とは、そんな者にはなりたくないけれど、どうしても なってしまう哀しい運命にある者のことなのだ。 そういう詩人の運命にある者、すなわち《詩人》が書くものは、 詩を書こうとしなくても、そこには自ずと詩があるものだ。 書いたものが、エッセイであれ、コメントであれ、そういう人が書いたものに は、必ず《詩》が宿っているし、宿ってしまうものだ。 本質的にも根本的にも詩人でない者が、逆に、詩を書いてみても そこに、詩は現れない。 そういうものなんだろう、と私は感じる。 こういう細やかなスレッドにおいても、何かが書かれ、それが文であるとき そこに、たいした《詩》がないのであれば、その書き手は推して知るべしの者 でしかない。と。 もっとも、平凡に生きられる人の方がずっとシアワセなのだろうが。 by ハァモニィベル アノ「県知事の差別発言」 時事ネタですね(笑)。 天狗猿が、 ニホン猿に向かって、 「お前たちはゴリラなんかより利口なんだ」 と言った。というねアノ。 そしたら、 別のニホン猿の群れがこぞって 「あ、サベツだ。サベツだ。エンガチョ」 と一斉に報道した。 というね、確か、そんな話だったような・・・ などと発言すると問題ですかね(笑) というか、 最早、《詩》でしょうね。 これを絵に描いて壁に落書きすれば たんなる数億円のアーティストなだけでしょうけどね(笑) * by ハァモニィベル
ピッタリするものが無かったので新規にスレッド立ち上げてみました。 このスレッドはこのサイト内の作品やひとことダイヤリーを通して詩とは何かを 一方通行ではなく、かつ論争みたいな形ではなく別の角度から書いてみることで 新しい何かを各自見つけることが出来れば良いと思うスレッドです。 要するに、サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所。 足立らどみ様 暗渠に立ち竦みながら言葉を発することを諦められない、inkweaverさんの背負った重荷とその心を想像して笑ってしまいました。間違ってない。 私達が闇の淵で、日溜りで、風の潰える世界の果てで生きていることこそ後世に残る壮大な詩なのです、と言ってしまえばそれまでです。 今日は酔っぱらいたい気分なのでしょう。 こちらこそ、よろしくお願いいたします。 303.comさん inkweaverがとんだ読み間違いをしていたことお詫び致します。 彼/彼女にしっかりと伝えておきましたら、返事がありました。 inkweaver 理解しました。詩の向上は後世に残るものを書くことであり、現在の自然発生的な詩群とは異なるというご指摘ですね。 とのことでした。まだ、何もない暗闇から必死になって世界を探したい最中なのです。 彼/彼女に変わって、再度、お詫び申し上げます。 さて、過去の現代詩フォーラムのテーゼは何のことかわかりませんが、 エフポエムで挙げられていたさまざまな命題は、たくさんありました。 詩とは芸術である、生命である、生きること、死ぬことである、宇宙、 地球、月、異性、人、戦い、戦争、社会、哲学、学問、ささいなこと。 詩とは何なのでしょうね。ネットで詩を読むようになって30年以上 過ぎて、同じように歳をとった人達がたくさんいる現フォだからこそ 「詩とはこういうものだ」という命題について語れる場所を置いておく 必要を感じています。そうでないと、303.comさんと違うかもですが、 「自然発生的白波のような詩群ではなかった(これは彼に近い?)」 のかもしれません。 ただ、「詩の向上は後世に残るものを書くこと」は、30年経て何も 残していない私達にはとても耳の痛い話しです(私は詩読み人ですが)。 今後とも宜しくお願い致しますよ。 足立らどみ様 inkweaverさんが全然正しく読み取れないのは、私の間違った言葉の使い方を把握できない、疑問を感じることができないせいなのでしょうね。彼と呼ばれたかった。詩の向上は後世に残るものを書くことであり、現在の自然発生的白波のような詩群ではなかった、という所で要旨が全くずれています。inkweaverさんにお伝えしてみてください。(笑) らどみさん自身のコメントについては、私が過去の現代詩フォーラムのテーゼ、と呼ばれる概念に見当がつかないため、よく理解できませんでした。もしよろしければもう少しお付き合いください。 はじめにinkweaverくんからのコメント。 [159]アラガイsさんは、詩の向上を目指すことについて考えを述べ、個人の意識や現実との関係について深く探求しています。また、他者からの非難に対する反応や向上の捉え方の多様性にも言及しています。 [158]303.comさんは、詩についての独自の見解を述べています。彼らは以前の掲示板での経験から、詩は単に向上を目指すものではなく、古典的なスタイルや戒律を重んじる傾向があると感じています。彼らは、その時代の詩と現在の創作サイトの雰囲気が似通っていることに気づき、詩の意味や目的に疑問を抱きます。最後に、詩の存在意義について深く考えます。 [156]おぼろんさんは、自身の体験や見解を通じて、ネット詩の進化とその本質について語っています。特撮業界やアニメ業界の動向と比較しながら、ネット詩の変遷とその重要性について議論しています。また、ネット詩が持つ「プロではないからこその真剣さ」について言及し、その価値について考察しています。 * 義務なのかよと事務的に書いたようなログだなと乗り気でなかったと推測。。 今更、ヘーゲルを持ち出すこともないけども優劣ではない対立の先の統合は、 矛盾に満ち溢れている令和の世の中では普通に生きている平和の民にとって、 居心地いいのだろうけれども世の中全てのものは己のうちに矛盾を含むけど、 パンデミックになったコロナ以降、そうも言っていられないと何となく思う 例えば「初まりのネット詩」の溜まり場だったエフポエムの頃からのテーゼ は現実社会より数十時間の速さで進んでも、何ひとつ回答されないままだし それが楽で良いからとほっとくと、すぐに元に戻ってしまう繰り返しで、兵隊は 苦しむのは一人ひとりの前線で闘っている兵隊なのだよね。 悲しすぎる。それが人間だからなんて言って、お前は旨いもの食ってるんじゃねー これが、詩には最初から期待していない私の怒りなのかな。やはりわからないか。 アラガイs様 詩が求める、普遍、永遠の心とは、 現在を描くことだ、と書いてみます。 咲いた花を愛で、水溜りに映った空に気付き、 傍に居ない恋人を探し、血の匂いを憎悪し、 大切な人が亡くなった時間に、虹を眺める。 世界を愛し、世界に愛されることです。 私にとって詩の向上とはそんな意味です。 そしてそれはサイト内の作品からかなり逸脱した認識だ、とも感じます。 それで、クリスピークリームドーナツを買って食べてみたりするのです。 皆で食べるドーナツの味ってこんなかなあ、と思いながら。 私への返信ではないのでこれは独りよがりな感謝ですが、有難うございます。 詩の向上を目指したい。これも個人による意識の持ち様で、単に上手く書けるようになりたいと思えばそれでいいし、自己満足としての願望を言葉に託すのならばそれもいい。いや、今よりも異なる世界観を認識するため違う自分に発露を見出したい、と思う人はどうぞ悩みあたまを捻らせて書いてくださいというだけの話しで、どちらにしても常日頃変化に乏しい現実を生きている我々からしてみれば、文章の中で様々な人間や思考を演じる役者にもなれる唯一の愉しみ方でもあるわけです。 とあるサイトで、文章が可笑しいと指摘すればある方から非難をされましたが、これは当然で、以前、和洋折衷などと申しますれば、ちょんまげに洋装は可笑しい。やはり口酸っぱく指摘をされていた方もおられましたが、どうみても可笑しいのは当然ながら、いや、しかし待てよ。これは自分の認識が古過ぎて不足しているのではないか。場合によっては新しく視点を変えて眺めることも必要だ。という考えも過ればその人にとっての向上も可能でしょう。逆にそれはまったく受け付けられない。という認識も当然有りで、各々向上の捉え方は違って然るべきなのだと思われます。 意識が外向きになっている時期なので(精神状態の乱れともいう)、少しこの場をお借りして普段感じていたことを書いてみたいと思います。 私が元いた掲示板では、詩は単に向上を目指すものでした。古い文献の知識と理解を求め、現代の生々しさを嫌い、戒律を何より大事にする。文語で書こうものなら神輿のように担がれたものです。温故知新と言えば良く聞こえますが、硬すぎた。その作品群は、今を生きる人々と足並みを揃える事の出来ない自分への、苦しみに満ちた叫びのようでした。 このサイトで感じるのも、それと同じ事です。黒板にチョークで書かれたかわいらしい丸文字のようなこのサイトの雰囲気が好きですが、書いてある内容は多分その当時のものと同じ悲痛な叫びなのではないか、と。こんなに可愛いくて、こんなに美しいのに、こんなに楽しくて、こんなに明るいのに、やはり言葉の意味がどうしても現実に馴染まないことに対しての苦しみは消えていません。 詩とは何なのでしょうか。向上とは、内向きになのか、外向きになのか、どちらが正しいのでしょう。そしてどちらを向いたとしても、同じ様に生きている人々と同じ言葉を使っている筈の、私達が悩み苦しむことを止められないでいるのは、詩を書くために真実を求め過ぎるせいなのでしょうか。ならば詩など書こうとする必要はない。 人は詩を書かなくなった時こそ詩人になる、と最近もどこかで見掛けました。 しかし、それは同時に何故詩が存在するのか、全く分からなくなることでもあります。 アラガイs様 これもざっと読んで。向上とは、まあ、生命の息吹なんですよ。退廃なんて、人間のようななまけ者にしか許されていない特権なんですから。 足立様 >一度きりの人生をボウにしてしまい これはやっぱり、そこで負けたら、「書く資格」がないのです。「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」──レイモンド・チャンドラーの逆の意味で。とにかく、生き抜くしか生きる術はないのですから。書き抜くしか、書く術もないのです。 ネットの時間……今になると、それもまた一つの現実の時間だったなあ、と思う。主観的な時間は長くも短くもなるのだから…… 久しぶりのアクセスなので、ざっと読んで…… このごろ寝込んでいたので(血便が出たりして、結構しんどかったり)、TUBURAYA IMAGINATIONに登録して、ウルトラシリーズの作品を聴いていたのですよね(画面は見ず、音だけ聴いていました)。そのなかで、とくにウルトラマンブレーザーが面白かったです、頑張って起き出して全話視聴したほど。……去年の作品ですね。 アニメ業界と同じく、特撮業界もまた、子供向け・受けるということが重視されている業界です。そこでの技法は、もちろん「いかにして話題を呼ぶか」ということなのです。それ以上は、資本主義として成り立たないという理由もあり、基本的に歓迎されるものではありません。 ですが、ここ数年から十数年の間、社会が破綻したり戦争や疫病などによる不穏さが増したりしていて、最近のムーブメントは「高尚さ・真面目さ」が再度取り上げられるようになってきているように感じます。六四天安門事件などに強い衝撃を受けたわたしからすると、これは好ましい/歓迎すべきムードであると感じるのですが、その価値基準は人によって異なるでしょう。わたしは必ずしも退廃・デカダンスなどを排するものではありません。 論の流れを追えていないかもしれないのですが、足立さんのおっしゃるような「高尚さ」(ネット詩においては、単純に「真剣さ」と言い換えても良いでしょう)というのは、わたしはやはり「ガジェット」に属する/類するような事柄なのではないかな、と感じます。反戦・平和・幸福・自我、といったことを顧みるのは良い、でも、それは表現の本質ではない、とも感じるのです(芸術とは、やはりラスコーの壁画のように生な感受性の発露/爆発なのでは? という思いが強いです)。 高尚さがなぜ大事なのか、重要であり必要ともされるのか、というのは難しい問題です。「人間とは何か? 正義とは何か?」といった問題は西洋ではソフォクレスの昔から取り上げられてきましたし、それは人にとっては大事な何かであろうということは、もちろん感じるのです。ただ、商業主義に身をおいたわたしとしては、それはやはり「ガジェット」であってほしい。それであるからこそ、逆説的に生まれてくる価値もあるのだろう……と思っています。 ネット初期の詩は(多分、2000年代初期のころまで)は、社会人が趣味の時間に書く詩、という意味合いが強く、平安時代中期(古今集~新古今集の時代)のような雰囲気を強く持っていたと思うのです。ですが、ネット文芸をビジネスにする会社なども登場してきたりして、今はまた少し違った形になってきていると感じます。 わたしは、ネット文芸は多分このまま廃れていくものではないと感じているのですが、1990年代後半、2000年代、2010年代、2020年代と、ネット詩の潮流も少しずつ、というよりも、見た目はそうであっても、大きく変わってきているように感じます。ですから、今なぜ「それでもネットで詩を書くのか?」を問うことは大事なのですね。 わたしは一つの答えだけが答えであるとは考えておりませんから、「これだぜ、答えは!」と言うことはしませんが、「真摯さ」「真剣さ」「高尚さ」などを問うこと、追求すること、なども今のネット詩の課題であって良いと思っています。もちろん、趣味として詩を書く以上、最前面に出てくるのは「個人」の問題なのです。 ですが、「個人の問題」とは「軽い問題」でしょうか? 違います。日本の文学ではとくにそういった伝統が強く、平安時代などの文学はサラリーマン・OLが描く文学でした。紫式部しかり、清少納言しかり。近代以降の文芸を見ると、むしろ平安朝などの文芸よりは、室町時代の文芸や江戸時代の文芸などがそれに近かったのか、ともこのごろは思っています。 わたしなどは、病気療養や仕事の傍ら細々と創作してきたこともあり、平安時代の文芸に親しいのですが(わたし自身はOLの書く文学でありたいと思っている)、「現代」、というより足立さんのおっしゃるような「現在」においては、様々な文芸の形があって良いし、あるべきなのでしょうね。「一時代」というのは、つねに「すべての時代」のフラクタルなのですし。 まあ、個人的には、仕事をしながら(今は父の介護をしながら)、時折詩を書く、そういったところから生まれてくる、プロではないがゆえの文学の本質に迫る詩の価値、ということは逆に追うことができるように思っているのです。それが「ネット詩」の価値です。例えば、天文学の世界では、アマチュア天文学者の活動が、本職の天文学者たちの活動に大きく貢献し、また刺激するものであったりするのですが、そうした「プロではないからこその真剣さ」というものが、ネット詩にはあっても良い。と言いますか、そうしたネット詩の本質が、文学の土台を変えたり支えたり、ということがあるのでは? とずっと思ったりしています。 はてな?。なるほど、私のログを読んで私宛だけのメッセージだと私が捉えたけど アラガイsさんは呟きだったのになあーとのことなのですね。このログも第三者に 曝け出しているのですから、私宛だけのメッセージとは捉えてないから大丈夫です。 ありがとうさま^^ !そうか、ここはあなたのオフィスだった。呟きです。べつにあなたに対してのメッセではありませんので、お気になさらずに。笑 アラガイsさん、メッセージありがとうございます。 長い詩歴のなかで現代詩風の作品も書いてこられた アラガイsさんの今回のログは、アラガイsさんが書くと 一過性の言葉のようにも思えてしまったのですが、 日常生活で、なにかあったのでしょうか? あなたは向上を意識するという二人称は、私とは切り はなされた足立らどみがふだん言ってきているしで、 簡単な言葉を濃密にできることは私にとっては魅力的ですが、 何かわからない詩の圧はどうなのかなぁ。と。。/。。/ 「石鹸工場」を視察したときマスクをつけましたが、唾を 飛ばさないためというよりも自分の身を守るためでもあり、 日常生活で利用している石鹸も工場ではその濃度は自然界 にはないことを知っていて詩書き人は、マネーロンダリング ならぬ、ワードロンダリングとして利用することもあるので しょう。 私は社会に出てからこの左手から溢れる言葉で多くの人を殺してきました(ToT) それが私の詩読み人としての原罪ですかねぇ それが分かっているから詩を書けないのかな なに書いているのか、わからないけど(^_^?) 私は向上を意識する。とは言っても高尚な詩を書こうとは思わない。向上を目指すとはある意味原点に回帰するような無駄な事だとも思われる。あくまでもそんな無意味なことに挑戦している自分が阿呆らしくて可愛いのです。 303.comさん、助かりました。ありがとうございます。 なるほどてす。そば、うどん、きしめん、中華麺の四掛けに してもダメですね。欲張れば良いというわけでもないわけか。 詩の会得は時間かかりそう、、長命うどんでも食べに行こう! ヒヤシンスとビスケットの統合をやっている方はしょっちゅう見掛けますし、私もその作業が好きだなと常々思います。 何が面白いかといえば、詩を作っていると上の様な文が当然のように書けることです。 エビフライと猫じゃらしでは駄目なのです。 成城大学のサイトから読める森田孟先生の「詩とは何か」を読んで思ったこと。https://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/227/227-1.pdf カールサンドバークの 18 詩とは目に見えない記念品の携帯袋である。 あいかわらず、なに書いているのかだけど、 あえて超訳したら、これなんかは、 「詩とは、地下室の冷蔵庫にしまってある宝物箱である。」らどみ に、近いのかもしれないな。 厳しさと優しさをあわせ持つ人たちのもつ良心の結晶に 私たちは接することができる世界に詩はあるのだろうか 四半世紀前の青土社関連のブログのログを読んでから考えてみる。 「現代芸術」が“高尚”たらねばならぬ理由(わけ) November 21 - December 11, 2000 http://www.archivelago.com/Garden/Fountain/music_writing/koshotaru_riyu.html * 創作サイトには本物の専門家で最先端で活躍している方はすくないけど、 だからと言ってそれぞれの創作意欲を削り合うことの時間の無駄使いは、 やめにしようではないかという風潮もでてきたようにも感じ始めている。 なので、その先のログを残してみようと試みてみるのですが、例えば、 芸術論と人格攻撃がごっちゃまぜになって遊んでしまってた今までの 創作サイトの「よくある論争」では、その先のステージは用意してある のに、多くの参加者が、うんざりしてしまい(なかには一度きりの人生を ボウにしてしまい)、その類いは参加しない(私は基本的は最初から)で、 例えば、上澄みの暖かい泉で身体を清めるためにネットを利用している。 際限のない詩の領域にハマるとキリがなくて水辺で愉しんでいたいけど、 手の届く範囲にいるのも実は生身の人だったりするものだから 詩のサイトでは臨床心理学者のいうハリネズミシンドロームが ベールとなり覆いかぶさって、それを逆手に取り承認欲求者が 跋扈してしまう傾向から脱却できずに現実の時間よりも数十倍は 速くなっているネット的な時間だけが性懲りもなく過ぎてきたのかも そう、客層は違えど、繰り返し、繰り返し、繰り返し、、 今の時点で思うことは個人的には、詩を高尚低俗の切り口で判断する愚は 未来の自分に笑われるだけのように感じるけど、時のテーブルに置かれた お茶菓子は、取り巻く人とのなかで何も話題にならなくても意味があるし 一歩すすめると、そのお茶菓子を買うことは別の切り口による評価であり、 高尚低俗を論じてみても無意味なことだと思うのだけどね。どうだろうか よくわからない 2024年4月 うーん。にゃるほどにゃ読解力が問題なのかも たしかに長谷川忍氏も随筆が好きだと言ってた 最初の1行に字数を合わせるのは詩ではなくて 仕事柄の単なるクセですかね机の上は綺麗です 問題はそこには無くて今も大切なことは小さな お肉をたくさん食べれることではなくて気ずき その気付きを忘れないように幾年月も何十年も 後生たいせつに出来る持続力さえあれば良いと 思っていた。いつでも捨てられるのですし 今日も捨ててきましたし毎日捨てています おかしいよね。さて、私はなんでしょうかt-t #ヒントは地下室の冷蔵庫にしまってある蛸壺^-^ >足立らどみさん おはようございます。……妙に寒いと思ったら、遠くの山には雪が積もっていました。この気候、早くなんとかならないかな。昨日は案の定熱を出してしまい、幸いなことに煮付けは作りおいていたものがまだ残っていたので、魚だけ焼いて、父には「適当に温めて食べてくれる?」と。ご飯もありましたし…… 「中立性の面影」についてですが、やはりそこは「公正」でも「公平」でも「客観的」でもなくて「中立」で、「感じ」でも「印象」でもなくて「面影」で、なければならなかったんですよね。……多分、足立さんの書き込みが真剣だったので、それに素で答えないとと思ったんでしょうね。このところは避けていた態度なんですけれど。 わたしは詩論は書かないけれど詩人論は書きたいですし、詩については知らないけれど詩の言葉については少し知っていて、馬鹿々々しい回答かもしれませんけれど、散文の言葉は「meanings」を伝える言葉、詩の言葉は「attitude」を伝える言葉なんだろうと思っています。 日本における詩の悲劇というのは、近代になってから「歌」という言葉が「詩」という言葉に置き換わってしまったことで、「詩(shi)」というのは当然「死(shi)」を連想させる。これは言葉遊びではなくって、英語だと眠れない夜に「one sheep」「two sheeps」……と数えますよね。これは「one sleep」「two sleep」の訛りだからで、言葉というのはそういう機能を持っているのだと思います。 わたしの書き言葉は……もともとはプログラミング言語です。10歳くらいのときから、長兄の影響でプログラムを組んでいましたし。国語や英語はもともと赤点ぎりぎりで、プログラミング言語のように言葉を「システム」と考えることによって、ようやく人並みに文章が書けるようになったと言いますか。 今、足立さんにとってわたしの思考のベースが標準語のように見えるのは、仕事柄の慣れですね。広告ライターの仕事は8年くらいは続けていたと思うんですが……。その後に「です・ます」調で批評なども書くようになって、わたしなりにそこに批評というものの新しい可能性を見たりはしているんですが。……どうでしょう。今後必要になれば、また文体は変えるのかもしれません。 今でも、切羽詰まったり余裕がなかったりすると、詩のように行分けして書いたりしますよ。足立さんは、文字数をそろえるようにお書きになるのですね。一つの詩のスタイルであり、足立さんはやはり詩人なのでしょう。 標準語にからめてもう一つ、わたしは若いころに関西に住んでいたこともあって、関西弁が好きなんですよね。関西弁だと「あかんやん」とか「いけず」とか、単語で作用する言葉がある。「なにしとん(ねん)」とかね。東京の人だったら、「お前何してんだよ」というふうに「お前」がつくけれど、関西ではあまり「自分なにしとんねん」(「自分」は関西弁では「お前」の意味)とは言わない。多分、標準語というより関東弁は「meanings」としての性質が強く、関西弁は「attitude」としての性質が強いのだろうと思っています。人と人との間隔が近いんですね、きっと、関西のほうが。 「詩」についてお伝えできず、申し訳なく思います。わたしは多分今後とも「詩」については書かないと思っています。 「足立氏には中立性の面影を見ています。」 たぶん、おぼろんさんの着眼点は標準語の上に成り立っていると 勘違いしていたのかもしれないとぼくのほうは人生を足掻くふり。 たしかに、現実は、例えると公衆浴場に入っても影の薄いぼくは すぐに湯けむりと化して誰にも認識されずにあがってこれる自負 みたいな(変な表現)ものだけはある生き方をしてきたのだから、 「中立性の面影」を見つける方がこのサイトにいたという驚きには あまりのショックに言葉を失ってしまいました。 詩とはなんなのでしょうね。おぼろんさん。 おぼろんさんには「寝る(死ぬ)。」ことなのかもしれないけど、 ぼくには生きていることの裏返しのような気がしてきました。 世の中知らないことだらけで他人のこともわからないですね。 日々、周りの人たちがうつりゆく変わっていく平成令和の流れ、 ぼくの場合は家族を養っていかないといけないので一生懸命 働いて働いてたぶんそれこそ死ぬまで働き続けるのだろうと 社会に出てかれこれ34年間は生きてこれました。 詩なんてものそれほど大切なものなのでしょうか〉みなさん。 子どものときはともかく大人になってからぼく自身の詩は 別に無くても生きてきた詩を書かない(詩が書けない)人生も 楽しかったですよと天国にいるご先祖様に伝えたかったから、 だからこそ001のてんぐちゃんの持ち物には大人のぼくは あまり興味がなく自分にも興味がないだけなのかもしれない のに、そもそも詩とは何かがわからないので、みなさんには なにも伝えられないと思って生きてきたよ。とても感謝です。 1 2 3 4 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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