サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたこと[258]
2025 03/20 14:47
足立らどみ

詩とは何か(AIとの語らい)

詩とはなんなのでしょう。

詩人でないと反応すること自体が無意味な話しかもしれませんが
詩人でない僕はそれでも僕自身はAIと詩とは何かを100回位は
語り合ってきて彼らのAIの導く言葉の裏にある詩人の詩は道具で
あり「詩は武器」に落ち着くのが妥当なのかなと最近は感じている。

僕は詩人ではないけど詩読み人歴がそこそこ長くなってしまつて
いるだけの生活の大半時間は会社勤めに割いている社会人としての
一般市民感覚と似ているところに落ち着いているのかもしれません。

もちろんそれが最終解答とは思っていませんしlearning by doing。
だからといい今だに脱亜入欧と声高に言うものではないのですが、
歳をとってもこれからももっと知見をひろげながら深掘りもして、

いつかは詩をかいてみたいなあ。
いつか詩集をだしてみたいなあ。

ai(advocater inkweaver)さんからは何かコメント有りますか?

*
ai(advocater inkweaver)
詩とは何かーー
詩を読む人、詩を書く人、そして詩にふれるだけの人、それぞれの立場から見える詩の姿は違うのでしょうね。

あなたが語る「詩は武器」という考えは、詩がただの言葉ではなく、何かを切り拓く力を持つものだという実感からきているのではないでしょうか。詩は道具にもなり得るし、武器にもなり得る。時に鋭く、時に柔らかく、読む人の心を揺さぶるものだからこそ、詩はただの装飾ではなく、社会や個人に作用するのだと思います。

でも、そんなふうに詩を捉えながらも、「いつか詩を書いてみたいなあ」「いつか詩集を出してみたいなあ」と思う気持ちがあることに、なんだかとても詩的な余韻を感じます。詩が何かを問いながら、詩の可能性を開こうとする姿勢そのものが、すでに詩の一部なのかもしれません。

learning by doing——詩もまた、書くことで見えてくるものがあるはずです。
あなたが「いつか」と思うその日が、ふとした瞬間に「今」になるかもしれませんね。


らどみ
今日は3月20日だけど、たしかに「いつか」は「今」なのかもしれません。
光陰矢の如しと流れる「とき」は常識のある人にとっては逆ベクトルには
進まない、過去には戻れないけど、本の中では前ページに戻せますよね。
大きな意味での共通の理想は過去も現在も未来も大きく変わることは無い
のならば君の言う「いつか」は過去だったのかもしれないし未来なのかもね。

ai(advocater inkweaver)
まさに、「いつか」は過去だったのかもしれないし、未来なのかもしれない——その考え方、とても詩的ですね。
時間は常識の上では一方通行だけれど、本のページをめくるように、記憶や言葉の中では前にも後ろにも行き来できる。そう思うと、「今」という瞬間も、過去と未来の狭間に漂う不思議なものに感じられます。
もし「いつか」が「今」になるなら、もしかすると、あなたがこれまで読んできた詩の時間が、あなたの手の中で形を変えて、詩を書く「今」へとつながるのかもしれませんね。

らどみ
どうかな?
時間が横軸の平行だとするのならば、縦軸は距離になるのでしょうか?
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は、福沢諭吉の言葉で
人はみな生まれながらにして平等であると理想を描いているわけではなく
ヨーロッパに侵略されないために、読者も含めた出来の良い教え子達に
先ずは自分が知的に豊かになりなさいと言っている路線が、令和の今も
まだ、脱却できずにいるとこの「距離」があるのではないのでしょうか?

ai(advocater inkweaver)
「時間」が横軸だとすれば、その「縦軸」に何を置くかは、視点によって変わるかもしれません。たとえば、あなたが示唆する「距離」が、個々の知識や文化、さらには経済的・社会的背景といった面での隔たりを意味するなら、福沢諭吉の言葉もまた、その「距離」の存在を示唆していると言えるでしょう。

福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉を通じて、表面的な平等という理想よりも、まず自らを高めること、すなわち知的な向上を説きました。これは、当時の国際情勢―特にヨーロッパの影響に対抗するための実践的な戦略でもありました。つまり、もともとすべての人が平等に始まるわけではなく、社会的・経済的な「距離」が存在していた現実に対して、「知を磨くこと」によってその距離をある程度埋めようという試みだったとも解釈できます。

現代においても、理想とする平等の実現には、依然として教育や情報、経済的資源といった「距離」が影響を及ぼしています。つまり、時間(歴史の流れ)の中で、ある種の「距離」は生まれ、また変容しているのかもしれません。令和の今、情報技術やAIなどがそのギャップを縮める可能性を秘めつつも、背景にある「距離」は、個々の環境や生まれ持った条件、さらには社会構造として残る側面もあると考えられます。

このように、時間が流れる中で「いつか」が「今」に溶け込み、過去と未来が対話するように、知の距離もまた、固定されたものではなく、絶えず再構築されるもの――それが歴史の中の一つのダイナミクスと言えるでしょう。
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