「 マグロ退治の午後。 」
PULL.







 もういいだろう。それ相応の返答はくれてやったし、それ相応の返事も聞いてやった。
 だからもう、いいのだろう。いいのだ。もういいのだ。コレデイイノダ。オデカケデスカー、レレレの…うるさいうるさい!どこにも出掛けない。これでいいのだ!。
 ということであたしは、これ以上はもう何も言いたくも聞きたくもないのだ。だからあたしはここに潜り込んで、頭から布団を被って、カーテンも閉めて、部屋の電気も消して、真っ昼間に真っ暗な中で、ふて寝をする準備を整えたのだ。そんでもってよし行くぞ!寝るぞ!アムロ!と、臨眠態勢で意気込んでいたら…。
 ビンポーンと、来た。
「おとどけものでーす。」
 ちっ。あたしは布団の中で舌打ちをする。どこの馬鹿だ。どこの馬鹿の配達員だ。あたしはふて寝をするのだ。もう臨眠態勢なのだ。プロの配達員のくせに、そんなことも分からないのか!。
 あたしは理不尽な怒りを罪のない配達員に向けながら、さらに目深く布団を被り、この場合の最も有効的かつ友好的な対処方法。すなわち居留守を決め込むことにした。
 だが、敵もまたプロであった。
 ピポーンピポーンピポーン、ピポピンポーン。
 リズミカルなチャイムを駆使し、巧みな遠隔攻撃を仕掛けてくる。
「おとどけものでーす。」
 うるさい!。それはもう聞いた。
「ヒノドリさんからのマグロのおとどけものでーす。」
 ヒノドリ…誰だそれは?あたしにそんな火の鳥のような暑苦しい名前の知り合いはいない。それにマグロ…あたしは魚嫌いだ。特に生魚が嫌いだ。マグロはもっと嫌いだ。駄目だ。考えただけでもう鳥肌が立っている。
 
 あたしがはじめてあの南方の海から来た奇っ怪な生ものを食したのは、小学生の頃だった。その頃住んでいた家の、近所に出来たばかりの、回る寿司屋に、父に連れて行ってもらったのだった。
 そこで父は得意げに、まだ小学生のハナタレ娘のあたしに、寿司のうんちくを、話してくれた。
 まず卵、父は回るそれを取り、ひとつを自分に、もうひとつをあたしの皿に、置いてくれた。父は言う。卵の味で、その寿司屋の腕が分かる。あたしはふんふんと父のうんちくを聞き、その卵を頬張った。
 酢飯の匂いが、鼻につんっとくる。口の中でばらけてゆく、一粒一粒のお米たち。卵、甘く味つけされた卵焼きが、噛むと、舌の上で溶けてゆく。まるで、お菓子のようだった。
 あたしがもうひとつ卵を食べたいと言うと、父は駄目だと言い。寿司についての難解なルールを、あたしに話して聞かせるのだった。
 話しながら父は、ひょいひょいと回る皿を取り、ひとつを口に放り込み、もうひとつをあたしにくれた。でも時には、狙いを定めて取ったらしい皿の寿司をふたつ、口に放り込み、満足げに頷き、熱いあがりを飲んだ後。視線を右斜め上にそらし、子供にはまだ早いと言うのだった。
 父は、マグロをなかなか取らなかった。ぐるぐると、目の前を何度も通りすぎるマグロを巧みに避け、海栗やイクラや蛸を取った。その間も、父の寿司のうんちくは続き、あたしは普段とは違う雄弁な父の姿に驚きつつも、うんうんと頷いてそれを聞き、父は話し続け、うんちくを続けた。
 小一時間も続いたうんちくが、ようやく終わりに差し掛かった頃。父は、マグロを取った。
 これは「トロ」というのだと、父はまるでマグロを捕った漁師のように、誇らしげに言う。そして「中トロ」と「大トロ」の違いを、差別的に表現し、その「トロ」をしげしげと眺め、もう一度差別的に表現した後、それを口に入れた。
 あたしは父が「トロ」を口に入れるのを確認して、父に続いた。一口噛むと、あの粘っこい魚臭い脂が、口の中に溶けだしてきた。ねちょねちょとしつこく、舌に、歯に、口全体に絡まる、生臭い、食感……。
 一口で、あたしは、マグロが嫌いになった。
 だがそれを、あたしの隣で幸せそうに食べている父に、言うわけにはいかなかった。こんなに幸せそうな父は、家にはいなかった。はじめてだった。あたしはお腹の底からこみ上げてくる酢飯よりもすっぱい「もの」を堪えながら、父に言った。
 おいしいね。とってもおいしいね。こんなにおいしいもの、はじめてたべたよ。おとうさん、ありがとう。  
 何も知らぬ父は満足げに頷き、これがマグロだ。これが本物のマグロだ。早くおまえもこのマグロのように脂の乗った本物の女になれと、言うのだった。
 あたしは、口の中を犯すマグロと戦いながら、こんな脂っこい女にはなりたくないと、切に思った。
 父と、寿司を食べたのは、あれが最後だった。回る寿司の一週間後、父は会社の同僚の女と、駆け落ちした。口さがない親戚の話では、マグロの水揚げされる漁港のある街に、今もいるらしい。
 
 だからあたしは、マグロが嫌いなのだ。

 感傷に浸っていると、涙が出た。あたしは布団に顔を擦りつけ、涙を拭った。
 ビンポーンビンポーン、ピポ、ピンポーン。
 配達員は飽きることもなくチャイムを鳴らし続け、そのリズム感をアピールしている。
 やはりどう思い返してみても「ヒノドリ」なる人物の心当たりはない。それにマグロ、どこかの秘密結社からの嫌がらせだろうか?この間街でからかったキャッチセールスの若者の仕返しか?それともK子の差し金か?。分からない。心当たりがない。それにしてもマグロマグロマグロ…。
「ヒノドリさんからの新鮮な本マグロのおとどけものですよー。早くしないと腐っちゃいますよー。」
 ナニ?早くしないと腐る?魚屋かおまえは!。余計なことを言うやつだ。ひとり暮らしをはじめてもう、十ウン年になるが、こんな余計なことを言うしつこい配達員は、はじめてだ。聞いたこともない。もしやこれは、あたしが食べ残したいずこのマグロの祟りだろうか…。
 あたしはここで、ようやく気がついた。普通配達員なら、事前に配達先に電話連絡を入れるものだ。そんな電話はなかった。あたしとしたことが、ここにいたって気づくとは!ぬかった!。やはり臨眠態勢で注意力が散漫になっていたか、それにしても口惜しい。
 そういえば昔、ニュースで配達員を装った強盗の事件を見たことがある。それだろうか?いや、それにしてもマグロとは…あやしい!あいつはあやしい!。決めた。あいつはあやしいマグロ男だ!。
 あたしはめらめらと怒りが沸き上がり、布団を投げ捨て、すっくと立ち上がった。こんなにすっくと立ち上がるのは、久しぶりだった。
 軽い立ちくらみもそこそこに、キッチンに向かう。 
 シンク下の戸棚を開け、ひとり暮らしをはじめた時に買った包丁セットから、刺身包丁を取り出した。これまであまり役立つことのなかったこの包丁だが、配達員を装ったあやしいマグロ男と対するのなら、刺身包丁として本望だろう。
 あたしは細長いそれを腰だめにして、玄関に向かう。
 ピンポピンポピンポ、ピポ、ピポピポピポ、ピィーンポォーーーン。ドンドンドンドン。
「マグロですよーマグロですよー。これを食べたらあなたも本物のマグロのような女になれますよー。脂がたっぷりですよー。」
 マグロ男はいよいよ激しさを増し、あたしにマグロを迫っている。
 寿司の通は大トロじゃなくて中トロを食う。父のうんちくが甦る。父はあの日、あたしにこうも言った。だからおまえは中トロのように脂の乗った、上品な味の女になれよ。だけどお父さん。あなたは、大トロのような女と駆け落ちした。
 大トロでも中トロでもないあたしは、玄関の前にいる。扉の向こうで、マグロ男が言った。
「オデカケデスカー。」
 あたしは答える。
 ええ、マグロを退治に扉の外に。












           了。



散文(批評随筆小説等) 「 マグロ退治の午後。 」 Copyright PULL. 2007-08-14 05:49:24
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