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手っ取り早いから? 楽だから? いいえ。逆だと思います。 言葉は、メディアとしてはホントは落第生なのです。 でも、詩人などのアーティストは、抑制された範囲で、どれだけ力が発揮できるか、を知りたくてたまらんのです。 というか、ある枷、限定された手段だけを利用して何かを達成したいという、マゾ的な(サド的なのかな?)欲望保持者なんだと考えます。 あえて不自由な媒体を選んだのが詩人さんだと思います。 「手っ取り早いから」と「詩」の形態を採用した人は、まだまだ先は長いです、きっと。 by クリ あー、出会ってしまった というのが正直な所ですね。 あと、小説も、戯曲も書いてみましたけど、お話にならなかったし、音楽も、美術も人並みにさえ出来なかったんですね。で、詩だけが残ったわけです、俺の場合。 で、じゃあ詩は簡単かつーとそんなことはなくて、たぶん、リクさんの仰ったことに尽きるとおもいます。 ではなぜひつっこく書き続けているかといいますと、やはり言葉にどうしようもなく惹かれるからなんですね。救われたい とか 稼ぎたい とか モテタイ とかそゆーんじゃないんですね。 救われたい という時期もあったのは確かだけど、もうそんな時期はとっくに過ぎてしまったんです。それでも、書かなければ とおもっているのは ほとんど習慣なのかもしれません。常に書かなければ とおもっている 中毒みたいなもんかもしれません。 蛇足ですが・・・ 詩を表現の手段として、手っ取り早くて簡単で、効率がいいとおもっている人はそりゃあ多分勘違いですよ。 経験的にそうおもいます。 by 窪ワタル あ、こりゃ失礼 クリさんゴメンナサイ。 by 窪ワタル 何度かこちらのスレッドは目を通させてもらっていて 星もいくつか付けさせて貰っているのですが、 なんで俺が詩を書いているのか。 正直、よくわかりません。 理由が特に見当たらないし、使命感も義務感も優越感もないです。 なんでだろ。こういう書き込みはありでしょうか。 by 半知半能 問題提起ばっかしてて申し訳ない、のですが、えと。 小説はムービーだと北村さんは言うけれども、そして確かに大部分の小説はムービーなのだけれども、小説の中にはとんでもないものもあります。小説というものは非常にさまざまな形式を許してきた芸術です。手紙形式、カルテ形式、裁判記録の形式、アンケート形式、座談会形式などなどいろいろあります。ものすごく古くはいわゆるゴシック小説というものがありまして、これは物語を語ってはいるのですが断片からなりたっています。もう少し新しくなりまして日本のかんべむさしの「集中講義」「会議ひきのばし」、連想連想で言葉を連ねたストーリーのない奇妙な形式の小説です。最近でも(っていうほど最近でもないけど)津原泰水、牧野修の作品のような「これが小説なら詩はどーすりゃいいんだ!」と叫びたくなるようなシロモノもあります。単純に表記の面からみて、行分け・句読点なしという普通の行分け詩の体裁をとった小説もあります。とりわけJ・G・バラードが提唱し日本では筒井康隆が試していたコンデンス・ノベルという形態の小説、あーいうものは非常にデジタルで詩的な跳躍をするので、詩よりも詩的なくらいです。 したがって私には、小説と詩の見分けがつきません。なので私は、作者か批評屋が「これは詩だ」とか「これは小説だ」とか言うのをそのまま信じます。 私がみなさんに訊ねたいと思うのは、なぜ詩なのかってことでもあるんだけど、「なぜ自分の書くものが詩だと思うのか」ってことなのかもしれないです。もしも自分の書くものが詩ではないと思うなら、詩でなくってもいいやと思っているなら、「なぜ現代詩フォーラムという詩のサイトに投稿しているのか」ということも訊きたいなあと思います。 勘違いしてほしくないんだけど、なんていうのかな、詩じゃなくてもいいやと思いながら詩を書いてる人を糾弾するつもりはぜんぜんないです。むしろものすごく気軽に詩を書いてほしいなと思っています。詩というジャンルそのものはそんなに高級なものでもないと思っています。っていうかジャンルそのものに貴賤はないですわ。 なので、>>53みたいな書き込みに賛同する私なのでした。 by 佐々宝砂 ★はじめに ちょっと話の流れからは遅れますが。 モリマサ公さんが最初に、哲学を語った後で自分の事を語られたのが、私に はここでの象徴的な出来事に感じられました。 動機と哲学との乖離は、イメージが言葉を借りて表出され、詩が作者を蹴っ て世界に転生する時、すでに始まっている。哲学の先行が、詩に対する不誠実 さのごとく作者に直感された事に、私には詩の侮れなさ怖さの一面を見る思い がしました。 また同時に、そうした詩や世界への誠実さに殉じうる人の、すぐれた感受性 にも目を見張ります。…そういう人にしか、到達できない場所がある。 自分の論理や哲学に囚われて、表現のうちがわへ落ちてしまう詩の何と多い ことか。只の変換テーブルでは詩は作れないという事が分からずにいる人たち。 彼らは真実に迫る事なく言葉で言い訳めいた意識の壁をこしらえているだけで、 自分たちが詩の歴史を汚しているという認識すら無いに違いない、と私は肩を すくめます。 ★私のきっかけ 踏み絵を済ませておきましょう。 私じしん、決して美しい理由で詩を書き始めたのではなかった。実は大学に 入って東京に出てきた頃、イジメに遭ったのね。強くないと護れないものがあ るって事が、当時の自分には分かっていなくて。 それで何とか自分を建て直したいと思って、19になった正月から、ジョギン グなんかと同時に「週2編、詩を書く」という目標を突然立てて詩を書き始め た。日記では無かったけれど全くの我流。学校で教わった西脇順三郎と、D− day の暗号で知ったベルレーヌを掘口大学の訳で読んで。ベルレ−ヌ詩集から 恋仲だったランボーの事を知って、それも読んだ。でも勉強はそれっきりで半 年ぐらいは全く我流。結構恥ずかしい自己憐憫の詩も多かった。 で半年経って、こういう事をするからには専門雑誌も1冊ぐらいは読もうと、 厚木の有隣堂で現代詩手帖を買った。そこに平出隆さんが『胡桃の戦意のため に』を連載していて、強い感銘を受け現代詩へ転向して…という顛末は、以前 からあちこちに書いてきました。 ★いま書いている理由 いまは、やっぱり「面白いから書いている」のだと思う。 と言うか書き始めた当初から、自分や他人の文章表現の特異さに魅入ってし まうようなところが私にはあった。ナルシシズムとかお宅とか言われればそう かもしれないですけど。 それとともに、作文を通して世界の手応えを感じる事が出来るようになった からだと思います。自分に、他者や世界と張りあっていく自信を与えてくれた ものは詩だったし、社会的な使命感も充足出来て、それが最終的には私自身の 運命をも変えてきた。 ここまで生き延びられたのは詩を書いてきたからで、書いていなければ自滅 の顎から私は逃れられなかっただろうし、妻や仲間たちと出会う事も無かった。 ★私たちはほんとうにこの質問に応えているのか 私も不誠実のそしりを受けたくは無いし、詩を始めた動機や環境は決してキ レイゴトでは無かったので、敢えて踏み絵に参加させて頂いた次第です。 ただ、こうした類いの「私は貴方と違って不幸だから」的な体験の特異さを 詩をする理由として際立たせてしまうと却って読者をスポイルしてしまう、と いう吉田文憲さんの意見を、一色真理さんから教わった事がありました。 カワグチタケシさんはある合評の席で「誰でも、言葉を通じて他者と感情や 体験を共有する事が出来る」と断言していました。余りにも明快な答えに私は 驚きましたが、ことばにするという事は本来そういう事で。共有する困難さを 認めるにしても「あなたには分からない」で逃げる事は、言葉しかない詩人に とって許されない事ではないのか、と思うのです。 詩のボクシングで、癌患者だという中年男性の出場者が、ある少女詩人に敗 れる場面を見た事があります。敗れた相手が彼女で幸いだったと私は思いまし たが、実はそうした残酷さを前提に、表現の世界というのは成り立っている。 作者の動機や目的などは、読者・詩の受け手にとってはあとの話。まず自分 が関心を持てて楽しめる、或いは無視できない詩に出会えることが先であって、 むしろ『なぜ詩を読むのか』のほうが大事だと私には思えるのです。 『なぜあなたは詩を書くのか?』この設問に、なぜみんな「反射的に」自分の 理由ばかり書こうとするのだろう。私はこのスレッドに業界人的な自分の意見 を書くのは、実は「間違い」じゃないのかなと思う。 例えば古今東西の様々な詩人や評論家が語る『なぜ詩を書くのか』だとか、 あるいは詩に馴染みの無い人があなたに問う『なぜ詩を書くのか』と、それを 解き開かそうとする詩人の答えのほうをむしろ読みたい。そう私は願う者です。 2006/01/19〜23 大村浩一 by 大村 浩一 直接関係ないし、どうでもいいことなんやけど、 どうも「○○さんらしくて好きです」という類の感想が ひっかかってしょうがない。 それはその詩がすきなんじゃなくてそのひとがすきなんじゃないのか? あ、別にそれでもいいのか。 詩人も芸能人だからな。 by れつら 今夜、ドアーズの動画みてておもったこと。 私、これまでいろんなとこでいろいろとあれ読んだーこれ読んだーって書いたけど、 確かに私、たくさんのもの(割合からすると詩は少ない)を読んだけれど、 だけど、だけど、私、私が詩を書き始めたのは、谷川俊太郎のせいでも、 長田弘のせいでも、新川和江のせいでも、寺山修司のせいでもない。 まして入沢康夫や吉増剛造や田村隆一のせいでもない。 よく考えてみたら親のせいでもない。親に教わったっていやなことは続けない。 ジム・モリソンがわるいのだ。あの気狂い男のせいで私は詩なんて業に捕らわれた。 私は私を癒そうとして詩を書き始めたんじゃない。 さみしかったからじゃない。しんどかったからじゃない。辛かったからじゃない。 失恋したからじゃない。だけど、偉そうな理由さえ、ひとつもない。 ただ惚れたからだ。ほかに理由あるか。 私は好きなひとのようになりたかったのだ。 ううん過去形にするのは間違いだ。 私はあのひとのようになりたいのだ。無理だとしても。否、無理を承知で。 今夜、彼の"Texas Radio"を聴いておもった。あれは音楽に乗せてるけど、 歌じゃない。あれは詩の朗読だ。私はああいうものがやりたかった。 (なんで過去形にしてしまうんだろう、ほんとうは違うのに、違うのに) 私はああいうものがやりたいのだ、今も、わずかにでも、可能性があるのならば。 愛されるのはそもそも無理なのだし望んだこともない(相手はもう死んでる)。 好きなひとのようになりたいっていうのは、おかしいことだろうか? そんな理由で詩を書くのって、へんなのだろうか? by 佐々宝砂 理由をもうひとつ見つけたので書いておく。 願望充足のため。自分のためだけの天国を妄想だけでなくつくるため。 もっともそれは詩じゃなくてもいいと思われる。 むしろ詩じゃないほうがいいかもしれない、と最近思っている。 #感情吐露、独白、毒吐いてすっきり、オナニー詩というのとは違う。ねんのため。 #どっちかとゆーとオナニーのオカズを自分で作るのであるよ。 by 佐々宝砂 詩人だから。 by 大覚アキラ 個人的な無差別テロ計画のメモとして。 by れつら 私の病気は玉ネギ畑だから。 by 佐々宝砂 どうせ誰にでも書けるって知ってるから。 技量の違いはあれど、書けると思う。 けれどみんな書かないから。 敢えてをやりたいひねくれ者ですよんw by 雨流れ。 とりあえず現フォにきてる人は詩か詩に関するものを書くか読むかしてるんで、 「みんな」じゃないと思うんだよなあ。 by 佐々宝砂 ボケ防止 by 花形新次 未来への参照 未来への参照
ただ純粋に書きたいから? 書かずにはいられないからですか? それほど言葉があふれてくるのですか? 趣味で書いているのでしょうか? 書くことでは救われないと思います。 詩を書くことで、こうしたい、とか明確なビジョンをお持ちの方もいらっしゃるのでしょうか? 詩を書くことは楽しいことですか? ものすごく幸せな生活から、詩は生まれて来ない様に思うのは私だけですか? そんなこと考えもせず、詩を書いているのでしょうか? あなたの詩論、詩人論、ぜひ聞かせてくださいね。 >>39 は、おおむね賛同でポイントを入れそうになったのですが、「あえて不自由な媒体を選んだのが詩人」というところにひっかかりました。カッコ良すぎるような気がして。 それでよくよく考えると、「「手っ取り早いから」と「詩」の形態を採用した」という方にむしろじぶんは近いのではないか、と思い返しました。あえて選んだ、というような意志的な理由ではなかったなあ…。 少女死するまで炎天の縄跳びのみずからの円駈けぬけられぬ 塚本邦雄 はじめはコトバと遊んでいるつもりだったのに、いつのまにか果てない地獄めぐりに落ちこんでいた…というのが本当のところです。 寺山修司は「『意味』と『無意味』とがきっぱり区別できない時代に生きているからこそ、ぼくたちは言葉にこだわって生きているのではないだろうか。ぼくにはどうも生きるってことは『意味』でも『無意味』でもなく『意味ありげ』なことなんだ、っていう気がするんです」と語っていた。 『意味ありげ』という宙吊り状態にどれだけ耐えられるか、というところに、なんだか後ろ向きではあるけれど、ぼくが詩に興味を持ち続ける理由というか、パッションの源があるような気がします。 演奏するには楽器が要るし、バンド組むには仲間も要る。 絵を描くにも道具が要る。 でも詩を書くには費用がほとんど要りませんね。 エンピツと紙があればできる。 暗唱して朗読するならほんとに何にも要りません。 それって私が詩を書いてる理由のひとつかもしれません。 「手っ取り早い」ときくと伝わり方がぶれがちです それは詩のもっているシンプルな美しさのことだとおもいます 絵や映像や音楽には機材がともなうコトもあり (詩と同じような条件の音楽と絵もありますが) あるいみイメージをアウトプットしやすいので オーディエンスをわりと操りやすいのですね そういういみで詩がもっとも難しいというのも納得です しかしフットワークがかるいというのが詩のもつもっとも魅力的な要素で そこは詩のうりどころだとおもうので あんまり詩の表現の難しさと一緒にしてしまうのはへんだとおもったのですが えーと なんか水差してすいません >>44 許します 恩田陸さんのことかと思ったよ。 仕事の文章を書いていていちばん焦った間違いは3つ、 「名前」 「金額」 「日時」 校正のときにはこの3つだけはしつこいほど確認しました。 全然関係なかったっす。 よろしくです、窪タオルさん。 #全然違うやん!! あ、こりゃ失礼 クリさんゴメンナサイ。 それは自分を保つため。 抑えきれない感情を詰め込んで 少しでも体を軽くしたいからです。 あー、出会ってしまった というのが正直な所ですね。 あと、小説も、戯曲も書いてみましたけど、お話にならなかったし、音楽も、美術も人並みにさえ出来なかったんですね。で、詩だけが残ったわけです、俺の場合。 で、じゃあ詩は簡単かつーとそんなことはなくて、たぶん、リクさんの仰ったことに尽きるとおもいます。 ではなぜひつっこく書き続けているかといいますと、やはり言葉にどうしようもなく惹かれるからなんですね。救われたい とか 稼ぎたい とか モテタイ とかそゆーんじゃないんですね。 救われたい という時期もあったのは確かだけど、もうそんな時期はとっくに過ぎてしまったんです。それでも、書かなければ とおもっているのは ほとんど習慣なのかもしれません。常に書かなければ とおもっている 中毒みたいなもんかもしれません。 蛇足ですが・・・ 詩を表現の手段として、手っ取り早くて簡単で、効率がいいとおもっている人はそりゃあ多分勘違いですよ。 経験的にそうおもいます。 頭の中にあるコンプレックス(複合体という意味での)を他人に伝えようとする場合、私たちは「直結」されていませんので、 なんらかの「翻案」あるいは「ユニバーサル・ランゲージ」「暗黙の了解」が前提/最大公約数として必須なわけです。 つまり、どうしたって譲歩しなければならないわけです。 目の前で歌って聴かせるのではなく、CDで聴いてもらう、などの方法を採る、ということですね。 その方法として何を採用するか、という問題でしょ。 それを「文字」「言葉」で表現するというのは、精確なようでいて、とてもアンビバレントです。 だって、自分の思う「赤」と、他人の思う「赤」は、 同じであるはずがないのですから。 では何故詩人は言葉を選んだのか? 手っ取り早いから? 楽だから? いいえ。逆だと思います。 言葉は、メディアとしてはホントは落第生なのです。 でも、詩人などのアーティストは、抑制された範囲で、どれだけ力が発揮できるか、を知りたくてたまらんのです。 というか、ある枷、限定された手段だけを利用して何かを達成したいという、マゾ的な(サド的なのかな?)欲望保持者なんだと考えます。 あえて不自由な媒体を選んだのが詩人さんだと思います。 「手っ取り早いから」と「詩」の形態を採用した人は、まだまだ先は長いです、きっと。 佐々宝砂さん、鋭い質問ありがとうございます。 確かに、詩以外のジャンルを、同時にやっていらっしゃる方もあるし、また詩に曲をつけて、歌っていらっしゃる方もいますよね。 私も詩を書く前は、舞台をしていて、ことばのひとつひとつの重みから、文学に入りました。そして、ことばで美を表現することに、行き詰って、次に見つけたのが、フラワーアレンジメントの世界でした。 はじめにも書きましたが、「言葉の持つ力」が「詩」、だと私は考えているのですが、皆さんはどうですか? 言葉が先にあふれますか? それとも先に、表現したい伝えたい何かがあって、言葉を探していますか? まあそんなことはどうでもいいから、ただ書きたくて書いていると言う方も、たくさんいるでしょうね。 文学論、芸術論が好きな方はどんどん参加して下さい。 たんさんの詩論をいただいたので、詩以外でも、こういう表現をしているという、アーティストな意見も含めて、ご自由に語り合って下さいね。 建設的な会議室になってほしいです。 健康になるため・・・って自作の詩にも書いたんですけど、幸せな時には自分には詩は書けない、というか書く必要が見つからなくなります、幸せって今の生活に満足できているって事だと思うので。自分の場合、吐き出したいけど吐き出せないドロドロしたものを形にして昇華するためというか。投稿をはじめるまでは完全に自己満足のためだけに書いてました。でも今ここで投稿させていただいていて、自分の書いた詩に評価をいただけるとすごくうれしいものですね。「共感して欲しい」、「自分を認めて欲しい」なんて言うとカッコ悪いですケド・・・そういった気持ちが根本にあるのかもしれないですが、まずは「自分が健康になるため」に詩を書くという行為を続けているんだと思います。 みなさんの投稿をよんで、おおきく三種類あるなとおもいました。 詩でなくちゃならないひとと、詩でなくてもいいひとと、 たまたま詩であったひと、です。わたしは最後のタイプですが、 文章をかくいがいのことはあまり得意でなかったので文章をかいています。 小説でも評論でもよかったのですが、詩をかくのがいちばん巧くいったので、 詩をかきます。 (演奏と作曲はできないじゃないけどヘタ、絵や造形はおはなしにならない稚拙さ) なんで詩なのでしょう? 暇つぶしならゲームやパズルをやってもいい。 自己確立のためなら仕事でも勉強でも子育てでもできるはず。 自己顕示欲を満たすためなら演劇やカラオケでもいい。 文章をかくにしても、詩みたいな人気のないものよりエッセイを書いたほうがいい。 なのになぜ詩をかくのですか。 出来の悪い自分の子供を産み出すような苦痛とカタルシス、 後はどうにでもなるさみたいな安易な気持ちです。 自分の場合、「自己の確立」のため。簡単に、エゴですね 今、この状態が生きているのか死んでいるのか 別に夢の中だったっていい けど、確かにそこに存在している そういう事実が明確に欲しい 感情とか見てきた風景、人、もの 自分の言葉で、指先で、 描けることが現在の「自己の確立」のための一つの手段 詩を読むことも、その一つ 誰かの目に触れられるのなら、これほど嬉しいこともない 何かしら意見を傾けてくれるのなら、これほど励まされることもない 自分の存在証明の為に誰かに頼るのは、ひどく滑稽かもしれないけれど 弱いから、って逃げてばかりで、自分だけじゃ認められない自分 統合失調症ではありませんが、大分、精神面に罅が生まれていて、 あぁ、もう何書いてるんだか分からなくなってしまった THE BACK HORNが歌うように、世界が幸せなら音楽は生まれないのかもしれない 自分が詩を描くということは、それに似ているのかもしれないし、 実は全く別なのかもしれない 幸せになりたいと、底の方で足掻いてるだけなのかもしれない たくさんのご意見ありがとうございます。 私も岡崎さんと同じく、自分が書いた詩は、「自分の分身」の様ですね。 そして、今こちらで発表しているのは、私も何年も前の作品で、 「何故詩を書くのか」と言う結論も出せていないから、新作を書くことには、 まだ迷いがあります。 こちらのHPをのぞく度、ほんと「幼稚園の参観」の様に、自分の出来の悪い子が泣いていないか、ドキドキしてしまいます。 益野様、銀猫様、清水様、素敵な詩論ありがとうございます。 どうぞ皆様、お互いの意見交換もご自由に、チープながら、詩論談議を楽しんで下さい。 もちろん読んでいるだけで、皆様の意見は、とっても参考になりますよね? 時々のぞいて行って下さいませ。 紙と鉛筆だけで宝石、いやその何千倍も価値のある光芒を放つものが作れるから。 世の中には数十億円の予算をかけた映画とか、同じく数十億で競り落とされる名画とかがありますが、それと同等、いやそれ以上のものが自分の手で、ということは徹頭徹尾自分好みに創れる。 その可能性にシビレタから。 こんな面白いことが、こんな手軽にできるジャンルは他に無いように思う。 上で“宝石”と書きましたが、私の場合「綺麗」「美しい」という“感覚的”なものがかなり重要なような気がします(逆に、皆さんが何かの発見や確認、あるいは人とのつながりを強く意識していらっしゃることが私にはちょっとした驚きというか、発見でした)。とにかく「創りたい」のです。自分好みのものを。そしてそれが人に認められればうれしい。 ※ただ、私の場合創造であれば他のものでも良かったように思う。自分の持つ表現手段の中で、最も習熟していたのが日本語だから詩を書いているのであって、たとえば若い頃「音」を扱う技量を磨くことにもっと励んでいたなら、きっとクラシック系の作曲を選んでいたのでは、と思うときがある(別の言い方をすると若いときにそっちに進む勇気がもてなかったわけです)。 追伸:詩を書き始めた高校生の頃。とにかく言葉を使いこなすこと。自分の思うがままに表すことが楽しかった。学校というか、それまでの人生では「習う(受け取る)」ことばかりだったから。 #うわっ、二箇所も誤入力発見せり!情けなーい! #見苦しい文章で失礼しました。 #>25 どこからが詩の書き始まりだったのか、もう記憶も定かではありませんが。 ふと過ぎる思いや、心動いたことを言葉という手段を使って記録する。 時には書かなかった日記であり、旬の思いであり、創作を強く意識してと描くこともあります。全てが虚構でも現実でもない、その中間くらいのところとなりそうです。 作品はわたし自身の切れ端であることに違いないので、例えばコメントを頂いたりすると、自分から発信した何かを受け止めててもらえたようで嬉しく思います。 そしてまた他の方の作品から何かを浴びる、というのも快感です。 同じ空気感を共有出来る手段として、わたしは詩が好きです。 と、何故詩を書くのかは実はあまり意識していませんでした。 たくさんの貴重なご意見ありがとうございます。 一人として、同じ答えはないことに、とても価値のある内容だと思います。 私が詩を書いているのは、言葉の持つ力を信じているからかもしれません。 いつも思うのは、どんなふうに書くかよりも、どんなふうに生きるか? 書くことと生きることはイコールではないけれど、 詩は、日常の中から生まれるものだと、思うから。 これは究極のテーマでしょうね。 皆様が自由に意見を交換していただけたら。 そして、それを読んだ方も、何か得るものもあるのではないでしょうか? えーと えらそうなことをかいてしまいました、。 本当は失恋してつらくてかいてました。 モリマサ公はそうしてうまれました。 2003年の夏のことです。 現在を切り取る行為として詩をつかっています 詩というカテゴリーにあてはまるかなと思う部分として考えると エッセンスを抽出しやすいから詩でまとめとこうというのがあります あとは自分で持ちあるくのに便利です 鉛筆と紙と指みたいなもんがあれば成立するかんじも好きです それとスタンスの固定化 感情というものは流動的なので特にそのへんになるべく重きを置きます 時々刻々と変化する自分を見失わないようにあるいは記録として とにかく現在をきりとる行為として 面白いスレッドが立ちましたね。 スイレン様、そのうちネタじゃなくて現代詩人としてきちんとしたの書きますから、 それまで過去スレにしないで待ってて下さいねー。 行きたい場所があるんです。 その場所は静かで、時間も流れているようないないような所なので、風が冷たくなったり日が暮れたりしないので私は寂しくありません。 詩や、音楽が終わったときの余韻が永遠に続いているような場所。そういう場所につながるような詩が書けたらなあというのを目指して書いています。 あと、私の書いた詩と、それを読んだ人が、海岸で、波しぶきを見ながら何かを楽しそうに話している・・・・あるいは、夕暮れの丘に一緒に座って、夕日を眺めながら、何も言わずに黙っている・・・・そいういう現場に立ち会えるのは、覗き見みたいで申し訳ないけど、幸せなことです。 それから、書けば書くほど詩の難しさや面白さがわかって、 興味がわいてきて、色々調べれば調べるほど、芋づる式に色んなことを知っていくし。 さらにさらに、日本の宗教を持たない人が、祈りの言葉を個人個人でもてたらなあ、と思います。 それを唱えると心がほぐされて、あったかくなって、という。 もしかしたら、良し悪しとは関係ないところで、自分の詩の中の言葉が誰かの心の灯りになれるかもしれない。 自分の詩にできなくても、一人でも多くの人が書いて、見せてくれたらいいなあと思います。 最後に、これは個人的な空想上の問題でしかないけど、自分は存在するけど、意味的には無である0みたいなものだと常々感じていて、0の存在、その存在意義を証明するには、他の数字をもってこないとということで。自分の書いた詩と、それを読む人によって、自分は自分であることを、誰かの夢の中の産物ではないことを、自分自身に証明できるんじゃないかなあなんて。 自分の居場所を確保したいとか、自己実現とかそういうのでなく、それ以前の、 自分はいま、ここに、確かにいる。という実感が欲しいんです。 例えば地球上から全人類がいなくなったとして、その時自分はちゃんとそこにいられるのでしょうか? 触っても、声をだしても、誰もいなければ、自分を自分として感じられなくなってしまうのではないでしょうか? 誰もいなければ、自分を自分として感じる必要がなくなって、自分を見失ってしまうのでは? いやいや何より、自分は今本当にいるのでしょうか?(いたのでしょうか?) 消えていく最後の瞬間、(いいや、確かに、いた)と言いたい。 自分の書いた言葉、持ち続けている言葉、あの言葉こそがその証拠だ。と言いたい。 わかんないけど、人類が滅亡しても、地球がなくなっても、数と、言葉だけは残るような感じがするから・・・。 べつに未練たらしく生き残りたいわけでなくて、何か、やっぱり寂しいじゃないですか。 何もかも消えてしまったら。 変ですかねえ。 私にとって、詩を書くという行為は、一つは自分の思考法を知るための試みです。 自分で書いたものを読み返して気付くこともあれば、他人から指摘されて気付くこともあります。 こういうふうに現実と向き合っているのか、と。 「どういうふうにとらえたら、もっと人生がおもしろく見えるだろうか」ということを考えるための試みでもあります。 レイモンド・チャンドラーの文体に憧れて。彼の描くような小説書きたかったができなかったから。 いや、違う。大学時代にグリークラブに所属していたので詩とにらめっこしていました。 どうしたら表現が組み立てられるか?それを知ろうと演劇部にも入った。 そんななかで結論づけたのは、結局自分が作者じゃないからどんな解釈も正解ではなく誤りでもないってことだった。 それよりも大事なのはそこ(詩や曲、脚本)から何を創ることができるか?ってことに気付いた。そしてそんな連鎖をさせる詩というものが凄いものに思えて、いつか自分もその連鎖の始まりになりたい、と思うようになった。 それと、兄の後押しもあった。以前中学生の時に書いた詩についてやたらと褒められて「何があっても描き続けろ」って言われた。バカ正直なもんでそれを今でも守り続けてます。 なんで詩を書いてるかよくわからない。もしかしたら単なる習慣。 幸か不幸か子どものころから親に七五調を仕込まれ、朝の食卓で川柳を作らされた。それがおそらくは最初の詩作。川柳が詩、ならばだけど。私は川柳も詩だと思うけど。ともあれ口から出任せでも七五調になる程度には七五調を仕込まれた。だから私の初期の詩作はみな七五定型短詩である。いわゆる口語自由詩を書くようになるまでにはかなり時間がかかった。もちろん口語自由詩の存在は知ってたし好きな詩人も何人かいたけれど、私が現代詩のごとき高尚なものを書いていいとは思えなかった。でも、小説なら書いてもいいんではないかという気がした。それで私は小説を書いた。読み返した。ひどい出来だった。原稿30枚ほどあったその小説を、私はわずか10行程度に縮めた。そうしたら、その小説はショート・ショートというより散文詩に近いものになった。いま思えばそうだったということで、当時は「こらだめだ」と思うのみ、原稿は焼き捨てられた。その後ドアーズに出逢って「ああこんな歌詞もありなんだな、こんな歌詞なら書けるかな、書いてもいいかな」と思い、歌詞めいたものを書き始めた。一方で私は子どものころからの習慣どおりに川柳と短歌をつくりつづけていた。母親が「俳句なんてむずかしいものやっちゃだめ」というので、成人するまで俳句はやらなかった(はじめたら、あまりにもむずかしくて、でもおもしろくてどつぼにはまった・・・)。 私はなんのために詩を書いてるかよくわからない。わかったと思ったときもあったがいまはとにかくわからない。もしかしたらやっぱり習慣。生活が幸せでも不幸せでも、習慣ならだいたいは休まず続ける。ものすごく幸せならそれはそれで詩ができる。しかし、ものすごく鬱になると洗顔のような当たり前の習慣さえおざなりになるように、詩作もやっぱりおざなりになる。つまり私は鬱状態になるほど極端な不幸せのときは詩なんか書かない。そういうときはクスリ飲んで寝る。私はとくに詩をつくることによって救われたことはない。他人の文章(詩と限らない)を読むことによって救われたことなら何度もあるが。 と、ここまで書いていきなり気付いた。 詩を書くのは気分がいいのだ。だからかくのだ。とりわけ、きちんと書けたなーいい出来だなーと思うものができると、誰がほめてくれなくてもうれしい。数学の問題が解けたときのようにうれしい。 言葉はあふれることがある。凡庸なポエムっぽいものや無意味な七五調や語呂のいい異言だったらいくらでもあふれる。まあそんなものだって普通の台詞よりは詩にちかい。とはいえそんなものやっぱり詩ではない。私にとって詩は「つくる」ものだ。ありあわせの材料を使って毎日料理をつくるように、ありあわせの材料で私は毎日詩をつくる。 元々は、僕が読みたい物は僕が書けばいいから。 今も根っこは同じだが、僕が読みたい物を僕が書けることを確認するために書く。書け なくなったらヤダからね。能力だいすき。それを目に見えるようにするために文章を書 くことになるのだった。 ビジョン なので詩を書くと僕が喜ぶ。これが目的その1。で、僕が喜ぶものは他の人も何人か 喜ぶ。たまに友達になる。目的その2。以上。 悩んだり迷ったりすることがほとんどないけど、悩んだり迷ったりするような作品を 書こうかなと思うこともある。逆もある。というより自分の心境とはなにもリンクし ない。嘘もいっぱい書くし、思ってもないことも書く。 出来た物がダメなら捨てるし、良ければ愛でる。 楽ばっかりしている。 詩の人たちはたいへんだなーと思う。 何もしてあげられないなーと思う。 oldso up様、あをの様、私がこのコーナーの使い方をよく解らず、消してしまったのです。申し訳ありませんでした。今後は、削除は決していたしませんので、これからも書き込み、よろしくお願いいたします。私の質問というよりは、なぜ詩を書くのか、討論していく場所になればと、考えております。 というかおれのかきこみが消えてしまったよ このスレはグレーゾーンじゃないかな。「この詩は誰の作品か知ってますか」とか「パソコンで録音してMP3にするにはどうしたらいいんですか」というような質問とは違う。スイレンユキコさんの個人の疑問を解決するためのスレというより、ここに集うひとたちが「なぜ詩を書くか」について考えるためのスレのような気がするから。そしてその問いに対する答はきっとひとつではないし、また、単純でもないから。 おじゃまします。 たいした人物じゃないので、詩人とは言いたくないです。誰もそう思ってもいませんけど。 書くことによって、自分のこころの中に散らかったものを整理していると思います。 上手く整理できた時には、すっきりします。 (web上に)公開し、読んでもらうことによって、読んだ人の反応を知りたいのでしょう。 人のこころに 触れたいのかもしれません。私は。 難しく考えていません。背伸びできるほど若くありません。幸せとか、不幸とか、 だから 詩が書けないとか、書けるとか、明確に言い表せない感情もありますから、 無理に言葉にすれば、納得しない詩になることでしょう。 書くためのネタ探ししてるわけもなく、誇大な表現も 張りぼてになります。 絵画のような詩も ドラマのような詩も、得意な人が書いてくれます。 私の書くものは、私にしか書けないのです。 あたり前ですが。 おじゃましました。 1 2 3 4 5 6 7 8 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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