「 きいろいし、み。 」
PULL.







一。


わたしの壁にはきいろいしみがある。

しみはわたしが産まれる前からあったしみで、
わたしの父がこの家に婿に来る前から、
ずっとそこにあったしみなのだと、
母は教えてくれた。

婆がいうには、
婆が爺をもらう前からもうそこにあり、
その頃は今よりもうすいきいろの、
しみだったのだそうだ。

わたしは爺を知らない。
いつか婆に爺のことを聞くと、
婆は壁を撫でながら、
こう教えてくれた。

「それはそれは白い肌をしたいい男だったよ。
 肌が陶器のようになめらかでね。
 あの白い手が、
 あたしの頬に触れると、
 とっても気持ちがよかったものさ。」

漂白されたように白い壁。
すべてが白く塗りかためられていて、
そこだけがきいろいしみに染まっている。

婆はいつまでもそこを撫で続けていた。




二。


わたしの父は白い肌と手をした父だった。
父の肌にはしみひとつない。
ゆで卵のようにつるりとした肌が、
触れるととても気持ちがよく、
母に注意されるまでいつも、
父の手や頬を撫でていた。




三。


わたしの家族はわたしが産まれてからずっと変わらない。

わたしと母と婆と父。
これがわたしの家族であり、
この家族でずっと家族の営みを続けてきた。

わたしが産まれる前は、
母と婆と爺が営んでいた。
婆が娘だった頃は、
婆と婆の母と婆の父が営んでいた。

わたしの家族は、
いくつもの時代をくぐり抜け、
いくつもの家族の営みを繋ぎ、
いくつもの家族を続けてきた。

わたしが婆になっても、
それは変わらずに受け継がれ、
営み続けられるのかもしれない。

それがわたしたち家族の営みというものなのかもしれない。




四。


父が消えた。
失踪したのである。

母と婆は、
別段取り乱すこともなく、
滞りなく父の失踪を届け出ると、
滞りなくいつもの家族の営みに戻った。

なのでわたしも滞りなく、
いつもの家族の営みを続けた。

滞りのない、
いつもの家族の営みには、
父と父の白い肌だけがなかった。




五。


父の白い肌に触れられないのが、
ひどく寂しくて、
毎晩壁の前で泣いた。

壁はただ白く、
押し黙ったまま、
何も答えてはくれなかった。




六。


ああ、
どこまでもなめらかで、
父のように白いわたしの壁。
あそこに頬を寄せ、
父にしたように頬ずりをしたい。




七。


わたしはいつまで、
この欲望を抑えられるのだろうか。




八。


わかっている。
ただひとつ、
きいろいしみのそこだけが、
父の肌とは違っている。

わかっているのだ。




九。


ある夜、
堪らなくなり、
壁に頬を寄せた。

壁は想っていたよりもやわらかく、
わたしを受け容れてくれた。
あたたかくやさしい壁、
それはどの父よりも父らしかった。

涙が止め処なく溢れ、
壁は止め処なく涙を吸った。
吸い取る事に壁はやさしくなり、
やさしくなる事に涙は溢れた。




十。


振り返ると母が立っていた。
母は泣いていた。
わたしを強く抱き締め、
母は言った。

「いいのよいいのよ。
 泣いていいのよ。」

そう何度も言いながら、
母は泣き続けた。
母の涙を見たのは、
はじめてだった。

はじめての母の泣き顔は、
いつかの婆の顔に似ていた。




十一。


ふたりで壁に頬を寄せ、
その夜はいつまでも泣いた。

壁はいつまでも涙を吸い、
どこまでもやさしかった。




十二。


季節は滞りなく変わり、
わたしのいつもの営みも、
滞りなく続いた。

そうしてわたしは婿をもらうことになった。




十三。


わたしの見合いは、
親戚の叔母がすべて取り仕切り、
壁のある部屋で行われた。

わたしの方からは母と婆と、
それに叔母が付き添い。
見合い相手の方は、
相手の父と爺、
それにその叔父が付き添った。

長い机を挟んで、
当たり障りのない紹介が、
二度繰り返された後。

「それでは、
 あとは若いお二人で。」

叔母の芸のない一言で、
わたしと、
わたしの婿になるかもしれない男は、
部屋にふたり取り残された。

障子一枚隔てた隣室で
ふたつの家族が耳をそばだて、
事のなりゆきを覗っている。

叔母が唾を飲み込む音が、
ひっきりなしに響く。

わたしはその日はじめて、
前を向いた。




十四。


わたしの婿になるかもしれない男は、
針金細工のように細いからだと、
白い肌と手をした男だった。

手を触らせてくださいと言うと、
男はすこし恥じらい、
こくりと頷いた。

男の手は細く白く、
どこまでもなめらかで、
むかし婆が触らせてくれた、
セルロイドの人形の肌を彷彿とさせた。

俯き加減にこちらを見る男の頬が、
とてもやさしくやわらかい。

「はい。」

隣室で待つ両家の家族に向かって、
返事をすると、
それで決まった。




十五。


後はつつがなく両家の間で話が行われ、
結納やその他諸々も滞りなく済み、
祝言の日取りが決まった。

祝言は次の季節の、
風の強い日だ。

結納が済むとすぐその日に、
夫はわたしの家に入った。
それがわたしの家族の営みであり、
わたしの家族になるということだった。




一六。


一日のすべてを終えると、
わたしは夫の白い頬や手を撫でる。
夫の肌はセルロイドのようになめらかで、
どこまでもやさしい。

そしてわたしはやわらかく夫を迎え入れ、
夫はなめらかに入ってくる。




一七。


父がどんな肌と手をしていたのか、
どんなわたしの父であったのか、
もう何も思い出せない。

ただひとつ、
父はあの白い壁のような父で、
そこにはきいろいしみがあった。
そう思う。

ときおり婆は壁を撫で、
母は夜に泣いている。




一八。


わたしと母と婆と夫。
それがわたしの営むべき家族であり、
わたしの守るべき家族である。

だからわたしの壁にはきいろいしみがある。












           了。



自由詩 「 きいろいし、み。 」 Copyright PULL. 2006-09-06 12:16:48
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