「 いつか、どこかで春が。 」
PULL.







 しんしんと、雪が降る。あたしの悲鳴を掻
き消すように。しんしんと、雪が降る。あた
し、とやつらの罪を隠す、ために。しんしん、
しんしん。と、罪深く。
 雪が、降る。
 しんしん、しんしん。
 と、




一。


 晴れた日の空は雲ひとつなくて、透きとお
った向こうからはもう、何も降ってこない、
だから、このままいつまでも晴れてみんな、
みんな解けて、流れて、なくなってしまうん
だって、想う。だけどそれは想っただけで、
現実には何も解けてなくて、明日になればま
たいつもの現実が、冷たく、凍り付いて、そ
こに、いる。
 真っ白い息をひとつ吐いてあたし、現実に、
戻る。息は、眼の前を重たく、漂って、やが
て現実に馴染むように消えて、しまう。あた
し、はそれを追い掛けて、一歩一歩、歩いて、
いる。
 二月の陽射しは拗ねるように斜めで、影は
長いから、あたしはなるべくそれを避けて、
歩いて。歩く。

 さくり、さくり。

 踏み締めるごとに雪が、啼く。啼き声は、
あたしを安心させてくれてあたし、息を付く。
息をして、息を吐き、息をして、息を吐きあ
たしは、一歩、また一歩と、歩き。歩く。歩
いて、続けているだから雪が、啼く。啼いて、
いるあたしは、その、雪の上を息をして、息
を吐き、歩いて、いる。あたし。




二。


 前を塞ぐ、長い、ビルの影。そこはうずた
かく、雪が、降りつもる、この冬の間一度も、
陽の当たらなかった、場所。まだ誰も踏み締
めたことのない、危険な、場所。でも渡る、
渡らなければ、いけないあたしは、この影を
越えて向こう、に渡らなければ、いけない、
行けない、渡らなければ、あたしは。どこに
も行けなくなってしまうだから。
 バックパックから懐中電灯を出し、足下の、
雪を照らす。歩く。暗い。影の、中に入る。
影の、中にあたし、いる。歩く、雪が啼く、
足下の、懐中電灯の明かりは、弱い、夕べ、
換えの電池は使い切った、先週、誰もいない、
雪だけしかない、隣街のコンビニで手に入れ
たあれは、ポケットに、あとひとつ、だから
あたし。一歩、また一歩、充電、するように、
歩く。

 さくり、さくり。
 ざく、り。

 やつ、だ。
 やつがいる。この雪のどこかに、やつがい
るやつがいるやつが、いる。いる。恐い、冷
たい、どぉくん、どぉくぅぅぅん、心臓が、
凍り付いたように、冷たくて、重い、白い、
息。重たく、眼の前を漂う、あたしの、息。
冷たくない、冷たくなんかない、この息が白
い限りあたしまだ冷たく、ない。あたし凍っ
てない、あたし、はやつらじゃ、ない。

 さくり、さくり。
 ざ、ぐっ。
 …り。

 やつはいる。
 この雪の中に、やつは、いる。だけどやつ
も弱って、いる。あの音、解る。やつはこの
冬の間一度も獲物を喰って、いない。やつは
餓えて、いる。しかもやつはまだ「狩り」を、
知らない、したことが、ない。
 殺せる、かもしれない。これならやつを殺
せる、かもしれない。あたし、は。

 さくり、さくり。
 ざっ。
 じゃ…。

 やつが近い。
 すぐ近くにいる、やつの足音が、する、あ
たし、ポケットの中のあれ、に指を掛ける、
チャンスは一度、それを逃せばあたしやつに、
喰われる、歩く、足下の雪が、啼く、やつ、
が近づく、影の向こうはまだ、遠い、日向、
陽の当たる場所に、近づく、近づかなくちゃ、
いけないのに、雪に、足を取られる、止まっ
た、やつの、足音が止まった、息が、さっき
よりも白い、息をするたびに肺の奥が、凍る
ように、痛い、近い、やつが、近くにいる、
いる、後ろから、もうひとつの濃い影が、重
なる。あたし。

 振り向けば雪が、やつが、立ち上がって、
いた。




三。


 閃光。使い捨てカメラのフラッシュ。鼻を
突く、臭い。眼と、全身の粘膜を灼かれたや
つの、呻き声。ちくしょう!遠かった、あの
距離からじゃやつにとどめを刺せなかった、
次の、フラッシュまでは時間が掛かる、この
影の向こう、あの日向まで、は距離がある、
遠い、どうする、やつがこちらを向いた、ぽ
っかりと熔けたやつの眼からぽたぽたと、水
が落ちている、耳まで裂けた口からはぎちぎ
ちと、鋭いつららが迫り出し、あたしのあた
たかい肉を、求めている、息が白い息が白い、
あたし、は雪まみれになりながら必死で、逃
げる、逃げる、やつ、は一歩ごとに形を整え、
かたまりながら、追い掛けてくる、日向まで
二十メートル、十五、十三、やつは完全に形
を整えた、凍った、かたまった、十二、フラ
ッシュはまだ間に合わない、十一、十、九、
腕、がやつに掴まれた、服の上からでもやつ、
の手は刺すように冷たい、十二、引きずり戻
される、十五、やつの口がさらにおおきく裂
けた、息、がかかる、やつの息は冷たい、こ
の冬よりも冷たくて、まるで白く、ない、や
つは死んでいる、やつに喰われればあたしも、
死ぬ、息は白い息は白い、あたしの息はまだ、
白い、なのに、二十、日向は永遠に遠い、や
つのつららが、喉に当たる、冷たい、やつの
唾液が肌の上で、結晶になる、どこか遠くで、
フラッシュの充電ランプが発光している、あ
たし、は腕を、やつの口の中に突っ込み、シ
ャッターを、押す。閃光。




四。


 空がまぶしい。
 あたしの眼と同じ色をした空が、雲ひとつ
ない空がじっと、あたしを見つめて、いる。
 こどもの頃、あたしは何かとよく泣くこど
もだった、外に出ればいつも、近所のこども
たちにからかわれ、泣いて、家に逃げ帰って
いた、もう外に出たくない、外の誰とも遊び
たくない、そう泣きじゃくるあたしを、母は、
か細くて、骨張っていて、決してやわらかく
はないけれど、だけどとっても、とってもや
さしい匂いのするあの手で、あたしを抱きし
めて、こう言うのだった。
「ほら、また眼から雨が降ってる。あなたの
眼はね、お父さんとおなじであの空の色をし
ているの、だからね、ときどきこころが曇る
と、眼から雨が降るの。でもだいじょうぶ。
すぐに晴れて、あの空みたいにおおきな声で、
からから笑ってしまうから、だってあなたの
笑顔はこんなにも、お母さんにそっくりだも
の。」

 見上げる、まぶしい、雲ひとつない、空。
は裂けている、空は、涙を流さない、空は、
その裂け眼から雨を、流すのだ。だからあた
しこの眼の中で、空を宿し、雨を、流して…
いる。




六。


 しんしんと、やつの上に降りつもる、あた
しの罪を覆い隠す。ように、あたしの雨を凍
らせる。ために、しんしんと、しんしんと。
雪が。
 罪深く、裂けた空の下、すべてのものに降
りつもる。


 Sin, Sin,
 Sin, Sin...












           了。



自由詩 「 いつか、どこかで春が。 」 Copyright PULL. 2008-02-15 07:54:01
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