「読んだものは読んだ」とは言えないのである。/ななひと
 
ような「変」な解釈をされてしまうことになってしまうのである。
今の話は、出典がうろ覚えなので、歴史的事実というより、私の「誤読」によって創り出された「幻想」の例、として受け取ってもらわないと困る。この文章を読んで、「内村鑑三は〜」とは「坪内逍遥は〜」なんて受け売りをしてもらうと困るのである。
そのように、私を含めて、「読んだ」ということを「読んだ」と宣言し、「それを「解説」しはじめるということは、本質的にどんどん「誤読」の距離を広めていくことそのものなのである。本当に「読んだ」と言うのは、「読みましたか?」という質問に対して、コピー機のように、「読んだ文章そのままを暗唱して繰り返す」こと以外に
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