多義性のデザイン(アスパラガスさん讃3)/渡邉建志
 
ぼくは」のあとに点もスペースもない。「とじ込められた」まで読まれ、
そこで一旦改行が起こる、そこに一瞬の沈黙がある。
沈黙は一瞬だからこそ浮遊する。
浮遊はポーズ(pause)だ。次に何が来るか僕らは待つ。
「きみの日なた」と言い放たれてまた空白が右に待つ。一瞬の沈黙。
「日なただよ」
ここに、もはや沈黙はない。そこに強く発声された訴えがあるからだ。(「だよ」…)
訴えの発音の物理的な波が消えたからと言って、訴えが消えることはない。
最後にはわれわれにパウゼはない。サスペンドされない。
われわれは満たされている。
訴えに。
きみが「日なた」であるという訴えに。
きみという「
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