ウラノスの午后/大町綾音
 


 彼には名前があるが、それはここでは語らない。なぜなら彼自身、ここではまだ“名前をもらっていない”存在だからだ。

 柱時計が二時十五分を告げたとき、彼は奇妙な感覚に襲われた。

「四月は、いちばん残酷な月だ……」

 ふいに、脳裏にその一節がよぎった。まるで、誰かの記憶を借りたように。口に出したわけではないが、コーヒーの湯気がその韻律に反応するかのように、微かに揺れた気がした。

 店にはほかに三人の客がいた。ひとりは文庫本を読んでいる青年、もうひとりは商談らしき電話をしている男。そして──もうひとり。

 彼女。

 白いコートを膝にかけ、グレイのセーターに身を包
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