ウラノスの午后/大町綾音
春の光が喫茶店の窓に届くのは、午後二時をすこし回ったころだった。坂の途中にあるその店では、陽射しが柱時計の盤面をかすめ、店内の赤煉瓦の壁にやわらかい影を落としていた。名前は「NABOKOV」。老店主が愛したロシア文学の作家の名をそのまま冠している。主人公がそれを知ったのは、ずっとあとになってからだった。
青年──いや、青年と呼んでよければの話だが──は、その日も何をするでもなく、その席に腰を下ろしていた。ミルクを入れすぎたブレンドコーヒー。角砂糖を二つ。ひとり分のマドレーヌは、少しかじっただけで皿の上に置かれている。古いエスプレッソマシンの音が、なんとなく子守唄のように響いてくる。
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