【批評ギルド】原口昇平「とりあう手」について/田代深子
 
に隠る。ひたすらに閉じていこうとする幾重もの円環。だが、

  写真にとられるのをきらった友人の顔に似ている朝に

この1行はある。「とる」という能動の動詞が、受動「とられる」となり、しかも友人が「きらった」ことを言う。物語にとりこまれることをきらい、語ろうとする者の視線から顔を背ける友人=他者「に似ている」おそらくは同質の〈他〉である「朝」の中で、物語は語られている。どこまでも〈他〉である「朝」だ(朝は物語の地平の向こう側からやってくる)。この1行によって、閉じた円環にはかろうじて綻びがあく。いやむしろ、いかんともしがたく物語は綻びなければならない宿命にある。なぜなら〈他〉がなければ物語
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