自由意志と責任−「存在の彼方へ」を読んでみる7/もぐもぐ
うに思われる。というのも、「理性」によって折角発見した「真理」が、「自由意志」によってあっさり「放棄」、「否定」されてしまうことになれば、何のために「理性」を用いて「真理」を探そうとするのか、その意味が損なわれてしまう虞があるからである。そのため、認識論と存在論を結合させて論じるヘーゲルやハイデガーの哲学においては、半ば必然的に、自由意志は「真理」発見のための「道具」、「理性の狡知」と見なされることになった。即ち、究極的には、「理性」によって発見された「真理」こそが「意志」の内容となる、「理性」的な「真理」と「自由意志」の内容とは最後には必ずや一致するものと想定されていたのである。
例えばハ
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