自由意志と責任−「存在の彼方へ」を読んでみる7/もぐもぐ
い。
自由「意思」を解体された私は、意思ではなく「認識」の主体として立ち顕れている(上のハイデガーのような解決においては、「自由意志」論の語るのと同じ事態を、むしろ「認識」によって引き起こされるものとして説明するわけだ)。近代哲学は、認識論として、第一原因としての主体よりも認識主体の方から議論を構成したのであった。では、この「認識」主体としての私は、一体「誰」なのか。
これは全ての近代哲学の根本命題である、デカルトに送り返される問いである。コギト・エルゴ・スム。我思う故に我あり。
これはどういうことか。簡単に言えば、「思われ」、即ち意識である限りに於いて、私の存在は確証されるということで
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