自由意志と責任−「存在の彼方へ」を読んでみる7/もぐもぐ
 
とである。デカルトの言う私は「思考する意識」なのであるが、コギト・エルゴ・スムという論証に当たって終局的な根拠をなしているのは、「思考」の方ではなくて「意識」の方である。思考することには一種自発性が含まれているが、意識は最初から受動的な形で与えられている。思考を止めることは出来ても、思考を止めていることについての「意識」を止めることはできないのだ。

これによって、「認識」主体としての私は、「意識」しているこの「私」であることが確認された。

では、意識の受動性は、一体何を意味するのか。デカルトはこの受動性から、この意識を与える者であるところの「神」の存在を導き出したのだった。では、「神」
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