純粋正義への架橋10/チャオ
 
みたい気もする
けれども そうすると 
その人と同じような苦しみを覚悟しなければならないのか、
と思う。


僕らは、だれの()にさえ立てない。だが、それを望み、近づこうとすることで、断言された正義は、その独断性を柔らかに崩していく。もはや、()は()という真理よりも、その境地へ立たせた、苦しみの後日を尊敬しているのだと言えるだろう。いかなる時間をすごし、その境地へとたったのか。それを知ることは出来ない。ただ、そのいびつで、不安定な、個人的な真理を断言する、一つの決定的な要素を持ちえたことに()は憧れを持つのだ。

世界の真理とは一つの断言に過ぎない。それら
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