映画日記、ただし日付はてきとう/渡邉建志
 
うな気がする。

 (音と沈黙/言葉と沈黙/映像と沈黙)

 沈黙にこそ、わたしが積極的にかかわっていける空間がある。演奏者がある音を鳴らすとき、わたしは受動的であるが、演奏者が意識してその音の「余韻」を聴くとき、あるいは音をとめて沈黙するとき、わたしはその余韻に参加している(させられている―ともいえる、が、演奏者がそれ―受け手の参加―を「意識」しているということが重要だ)。聴衆が沈黙に参加していると感じる。「能動的」に。
 わたしがハリウッドの映画を嫌うのはただその一点。鑑賞者の能動性の余地のなさ。
 命がけで作られた、極端なものを観たい。こちらも命がけで見なければならないような。目
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