佐々宝砂作「よもつしこめになるために」を読んで。/カスラ
 
して、民族の歴史を遡る。しかし、その民族であるとは、その物語を共有するということ以外であり得ないのであれば、物語を民族による創作とは言い得ないと知るだろう。いやむしろ逆に、民族こそがその物語によって創られているのである。われわれが物語を創ったのではなく、物語がわれわれを創ったのである。さて、「われわれ」とは今や誰の謂だろうか。われわれとは、神々の永遠の歴史における一場面なのではあるまいか。一場面にすぎない、とは言わない。「すぎない」と言える地点は、もはや存在しないからである。だからこそ、私には、ごく当たり前にそんなふうに感じられるのだ。」(新考えるヒント:池田晶子)

このような感覚は、宗教以
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