2006 10/23 23:23
「ま」の字
>>699 佐々さん
>>700 沼谷さん
この長い不況と、小泉改革で、おっしゃるような状況になりました(大きく見れば、戦後の順調な経済成長が終わり、制度は疲労を起こし、旧東側の安価な労働力との競争が始まったからといったところでしょうけれど)。小泉政権の5年は、確かに既得権益に切り込みはしたけれど、大きくみればホッタラカシ政策(自己責任・規制緩和)であり、企業は新商品・新業態の開発よりも人減らしと低賃金化で収益を上げたに過ぎない。すなわち労働強化と搾取の復活。学者もマスコミもそれを「企業の体質強化」と呼んで、疑いを持たない。
私がふと予感するのはそのもう一つ先の時代相です。人間の欲望は「もっと儲けよう、拡大させよう」ばかりではない。「安定」。これも重要な欲望です。日本人の安定志向ははたして死んだのか?
また、人間は「希望」に生きるものです。たとえ今が多少貧乏でも先の見通しがあるなら頑張れる。しかし今はどうか? 希望なくして日本人は生きられるか。
おっしゃるとおり、現在の状況では所得の平準化はありそうもない。しかし希望を失った層の強烈な反発、さらにはそれを汲み取る政治家や官僚が出る可能性もあるな。と思ったのです。実際1930年代の「右翼・革新」勢力はそれを掲げた。強大な集権国家を実現させて富を再分配するのだと言った。
私が698で言いたかったのは
「大乱」(革命とも言う)が起こるのではないか?
ということです。「15年」という数字を出したのも、これから紆余曲折があるゾ、昨日の敵は今日の友、昨日の正義は今日の不正義、昨日の攘夷は明日の開国、ということになるのじゃないか、ということです。
戦前の日本は、問題解決に関して大きな盲点があったように思います(過剰な軍事力の放棄・植民地放棄・なにより国民に富を与えることでの需要喚起を全然信用できなかった。下々の欲望を解放することを肯定的には捉えられなかった)。
ならば今だって我々は、問題の所在には気付いていても、それを解決しようとするときに何か大きな盲点を抱え込んでいるのかもしれない。前回の戦後改革への途上において、日本と日本人はオノレの力不足・欠点を嫌というほど見せられた。それあっての苦い果実であった。 またもそういう季節が始まるかもしれないな。と、このごろ思うのです。多くの人が罵り合う、多数意見という暴力が吹き荒れる、そして愚行と英知が入り混じった進行の末、新しい体制ができるのだろうかと。
イヤイヤ、全く的外れかもしれません。今回の変動は明治前期の松方デフレとかイギリスの囲い込み運動程度のものかもしれません(もしそうなら、日本はこのままアメリカ型の社会になると思う)。
きっと私は、勇ましく体制変革のラッパを吹く市場原理主義者に、ちょっと嫌味を言いたかったのでしょう。「あんたも歴史上の役割を果たしたらすぐにお払い箱になった攘夷復古論者や軍国主義者かもしれませんよ」と