2007 04/20 15:02
とうどうせいら
最終連がなかったらよかったなって思いました。
>存在の交感
>邂逅の奇跡
これらの言葉が上滑りな印象を覚えました。租借がされてないというか。
奇跡という言葉がだめなわけじゃないんだけど、
使う時に自分の作品に対する必要性を感じられないと、
「地球にやさしくしましょう」みたいな感じで軽くなってしまう感じがしました。
一連目
>私の中に夕立がある。・・・
と心象風景の暗喩でファンタジーの世界が始まっているのは好きですが、
最終一連で、観念的にまとまってしまい、なんか淋しいなという印象です。
これは作者の頭の中にあるテーマなんだと思いますが、
全部テーマを言い尽くしてしまうと着ぐるみからにんげんが出てきちゃったみたいで、
ちょっとテンションが下がってしまいました。
八重さんは、非常にイマジネーションや語彙の豊かな人で、
喩の愉しみを教えてくれる人やと思います。
さよならをさよならとダイレクトに書いてしまうのではなく、
さよならをファンタジーのフィルターにかけて喩で見せて欲しかったかもです。
たとえばわたしの中の夕立、がだんだん小止みになって虹が出てくるとか。
蝋のように透けていく自分が完全に溶けさってしまい、
新しい姿になるとかです(思いつかない。。。
この詩の中で気に入ったところはいくつもありますが、
最初に読んですごいと思ったのは、
>涙を流す。
>誰か居ますか。
>雫は足元に染み込み誰の手にも触れない。
ここです。涙が一滴地にしみ込み、誰も触らない。
その表現だけで、生まれて消えるまで誰にも知られない深い孤独が伝わるなあと思いました。
わたしは、水滴が落ちるのを目にしたことは何度もあるけど、
地に落ちる水滴の孤独について思いをめぐらせたことはなかったです。
八重さんはふだんから非常に観察力のある人なんだと思います。
そして水の一滴のきもちにもなりきれる繊細な人なのでしょう。
だからこの観察力や着眼点を生かして、
自分の感覚、ことばで、地道に作っていかれるのが、いいような気がします。
今は、きれいにまとめようとして、なにか薄くなっている感じがしています。
耽美な作風なので、周りの人も語彙の豊富さや文章表現を中心に、褒めて下さるとは思うし、
それは武器の一つだと思うので、大事にすべきだと思います。
でもきれいな単語を並べるだけやったらまだ表現ではないとも思います。
今わたしは踊りをしているのですが、
文章表現がきれいとかこんな珍しい言葉を知っているっていうのは、
踊りの美しい衣装の部分で、
ほんとはその衣装を身にまとった時ダンサーがなにを踊り表現したいのかが、
その人のオリジナリティのような気がしてます。
炎をあてると、ろうのように透けていくわたしのからだ、に対し
>もう誰も触れないのだからいいと思う。
とひとりつぶやく、内閉されていく淋しさ、
息を殺して隣にそっと座っている絶望感、こういう繊細な表現を、
翼とか月とか光とか神秘とか熱愛とか哀切とか、の
おおざっぱな単語に将来置き換えて欲しくないなと思いました。。。
(うううそういうの書いてるひともし見てたらすいません。。。)
それが作品にどうしても必要ならいいんだけど、
これ書いとけばきれいな詩でしょうって感じのはやなのです。
(でもそういうのに点がいっぱい入ってるし専門誌とかにも載っているので、
わたしの感覚は少数派なんかもしれませんが。。。(汗)
自分にしか持てない感情を忘れないようにして欲しいと思いました。
評というよりは読み手としての個人的な欲望の羅列になってしまいました。
すいません。なんだかんだ言って嫌いな作品ではないのだと思います。
長文失礼しました。