詩と非詩の境界 自由詩の限界についてのメモ/片野晃司
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- いとう 
コンクリトポエトリーを範疇に入れると「声」だけでなく「音」も含めていいと思う。音響詩みたいなの。話が少しそれるけど純粋詩で有名(?)な松井さんたちがやってる「方法」という機関誌があって、けっこう面白いです。http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/method/
- nm6 
他人の塀に書くのも読み手に身体的な危険が及ぶのも、マナー的にはいかんと思いますが、詩を制限するものでない気はします。
- よだかいちぞう 
だいぶ前にある人が、「読んだ人が 自殺したくなるような詩を書きたい。」と云っていたのを思い出しました。それから去年の忘年会の時に、片野さんが、詩は必ずしも善である必要は無くて、悪でもかまわないというような発言をしたのを思い出しました。
- つきのいし. 
- 石川和広 
- Dr.Jaco 
片野さんの考え方について、手前勝手ですがすっきりした気がしました。
語り方が以前と一貫していた。
- 豊嶋祐匠 
- しらいし いちみ  
- 若原光彦 
 
作者より:
うーん、結構矛盾だらけなことを書いてしまいました^^; 自由詩は自由で当たり前だ、と思っていたところへ「自由詩のきまりって?」という意外な質問がきて、無理やりひねり出したかも。善である必要はないよね。というか善悪の判定基準からも自由である存在。でも、たとえば朗読会で、朗読者がものすごい強力なアンプで詩を朗読して聴衆の耳を難聴にしたら、おいそれはあんまりだろう、と思うな。憎んじゃうかも。

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