とける/soft_machine
おぼろんさんのコメント
先日最終回を迎えましたが、一月からずっと「勇気爆発バーンブレイバーン」というアニメを観ていて(abemaなどで現在も無料で視聴できます)、そのエンディング・テーマで「戦うことは、溶けあうことだろう」という歌詞が出てくるのですね。それを思わず連想してしまいました。そのED(「双炎の肖像」)自体は、「日本語でおk」的な部分もあるのですが、その歌詞における「戦う」ということ、またアニメの作中における「戦う」ということは、多分「コミュニケーション」のメタファーであると思うのです。
「ことば は 約束したり/裏切り続けた」……これは、思春期の表現?
「母の胸を吸い 父の腕に抱かれ」……これは、幼児期の表現?
幼児期の言語表現については、わたしはメルロ=ポンティなどを読んでとくに興味を持っているものなのですが、これは「通時制」の表現? などと思いました。今ぐぐってみましたが、「通時制」っていう言葉、一般的ではないのですね。わたしの造語かな? もし深く掘り下げてみたいというお気持ちがありましたら、以下のリンクを参照していただければ。
https://ameblo.jp/palam-blog/entry-11335121721.html
↑こういう記事を読むと、インターネットの面目躍如だね、などとわたしは感じるのですが。
一言で言って、この詩は「言葉」を取り巻く、「過去」「現在」「未来」の表現なのだろうと思います。自戒もせずに自己の心理を垂れ流すような詩書きも中にはいますが、そうした作品に反発する厳しいフィルターを通しても、この詩は成り立っているような気がします。ですが、それはあくまでも文章作品としてそうである、ということであって、「詩としてはどうか?」というより厳しい問いを突き付けられるものであろうと思います。
作者が綴ろうとしたのは、心理か、意匠か、詩想か、はたまた人間性か、あるいはその化学か、といった感じに。読み手を取り込むにはある意味で印象的だったり、ある意味で衝撃的であったり、ある意味で身近であったりしなくてはいけないのですが、この詩においてまず身近に迫ってくるものは「ことば」という単語のみである──あるいは、流れのなかで「全体を直観」するような読み手も、現代には多いのかもしれませんが──その点で、「詩のための詩」ということから逃れられていないように感じるのです。「詩のための詩」、上等だ、おれはそういう「詩のための詩」を書くよ、と言い返されれば反論できないことではあります。
全体として、あがいているな、言葉と格闘しているな、ということは強く感じます。