作者からのコメント
りつさん、ありがとうございます。
ちょっと婆が先走りすぎておかしくなっていた点がいくつかあったので、文字を微調整させていただきました。失礼しました。
---2025/12/28 12:13追記---
atsuchan69さん、ありがとうございます。
atsuchan69さんのおっしゃる詩壇ではないですけれど、スローはスローなりの湖沼的役割を果たしていければなと思っております。今回の詩の舞台となった沼は、江戸時代の藩士が資材を投げうって灌漑用水用に造り、周囲が市街化していくなかで、開発から免れ往時(江戸ほどではないにしても戦前)の面影を今に伝えていると記録にありました。
---2026/01/01 16:13追記---
皆さま、あけましておめでとうございます。
洗貝新殿、返信が年越しになってしまい、失礼いたしました。
とにかく世話しない。ということで、たしかに婆さんはハクチョウやカモの世話をしていないのですが、餌だけは撒きにくるわけです。世話はしないくせに、餌付けはするんです。世話というのは、世の話と書きますから、いわば世間の中に入ってこそ成り立つ話なんですが、この婆は世間のことなどまったくおかまいなしですから、世間にどう思われようと、食べ物を派手にぶちまけて動物でもなんでもいいからそばに寄ってきてくれれば万々歳なのですね。世間からはむしろ白い目でみられているようでして、婆さんの方にも責任はあるのかもしれませんが、世間の方が婆さんを見放しているという見方もできるかもしれません。
となると、どこかからふらりとやってきたハクチョウやカモが沼に浮いているのと似たような感じで、だれもあまり関わりをもとうとしない婆さんが世間で浮いた存在になってしまっているわけですね。そして婆さんの方も世間とは積極的に交わろうとしなくなっているから、ひたすら鳥たちだけに向かって自らの存在を餌付けという行為によって認めてもらおうと躍起になる。ここにひとつの大きな分断といいますか、断絶が生まれてしまい、しらずしらずのうちにあいつには関わらない方がよいという一線が引かれてしまい、それがいつしか超えてはならない境界線となって世間の中でタブー視されてしまうわけです。ここにおいて、孤独な婆を真に世話しないのは、世間の方であるという逆転現象が生じるわけです。まるで沼の水面に自らが映るように、世話をしないという世間自体が水面に浮かび上がってきて、世間としてのありように疑問符をつきつけてくる事態が起きます。このまま孤独な婆をほっとけば、婆がバーとなってもだれも気付かず、やがては世間から見ればバードとまったく見分けがつかない存在、つまりは人間性がすっかり失われてしまうわけです。それよりももっと婆に関心をもって、干渉したほうがよいのではないだろうか、干渉が無理ならせめて鑑賞し、その個性をとことん認めてやってもよいのではないか、その個性をもっと積極的にバーの方へと伸ばしてやるべきなのではないだろうか、そういう思いがこの詩を書かせたような気がしています。
そのようにして世間がもっと孤独者に対して寛容である、というよりももっと「他人の顔してワルツ聴けますか?」的に積極的に響き合っていく姿勢が必要であり、そうすることで洗貝新さんがおっしゃるところの交響曲的な響きが世間という世知辛い水面にも広がっていくのではないかと期待しているわけです。
ちなみに、「世話」という言葉の語源を調べますと、仏教経由でインドのサンスクリット語の「セイバー(奉仕)」が語源という説もあるようです。「セイバー」というのは、つまり「セイ婆」であり、セイが勢を意味するので、「勢婆」、要するに勢いに乗ったバーで、世間はセイバーの勢いを止めるのではなく、むしろその勢いに奉仕することで、「セイバー」をさらなる高みへと、究極的には背に羽バーたきを与え、「聖バード」へと飛翔させるべきと考えております。
忙しないだけの餌付け詩に世話でもってご奉仕くださり、洗貝爺さん、ではなく新さん、ありがとうございました。
ウェルカム・コロンボさん、ではなくWCさん、ありがとうございます。
今回はコロン婆に扮してみました。途中でお掃除鳥のクーリングバードに乗り換えたので、カルガモゥのように全身を短くすると、発音的にはクリンボウかもしれませんが、お気に召していただけたなら幸いです。
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