作者からのコメント
りつさん、ポイントをありがとうございます。
コメントも頂戴しまして光栄です。
夏井椋也さん、ポイントをありがとうございます。
海さん、ポイントをありがとうございます。
鏡ミラー文志さん、ポイントをありがとうございます。
洗貝新さん、ポイントをありがとうございます。
コメントも頂戴しまして光栄です。
田中宏輔2さん、ポイントをありがとうございます。
wcさん、ポイントをありがとうございます。
花野誉さん、ポイントをありがとうございます。
ひだかたけしさん、ポイントをありがとうございます。
共鳴を示していただき、ありがとうございます。
ご指摘のとおり、詩壇がエゴや村意識の集積として機能してきた側面は否定しがたく、私自身もそこに強い違和感を抱いてきました。ご自身が関わってこられた批評的な場から導かれる見立てには、頷くところが多くあります。
そのうえで拙稿では、詩壇を理想化するのではなく、むしろその限界や歪みを含んだまま、なお残りうる機能は何か、という点を考えたいと思いました。お書きいただいた「三分の一としての長所役割」という言い方は、まさに近い感覚で、中心性や正統性を担う場ではなく、言語を溜め込み、読み直すための不完全で遅い装置としてなら、一定の意味を持ちうるのではないか、という見立てです。
ネット詩の即時性と、そうした遅い場との緊張関係の中で、どこまで言語を生かし続けられるのか??その問いを共有できたなら嬉しく思います。
イオンさん、ポイントをありがとうございます。
来年、サナメタルへ詩壇の構造改革を提案しようとも思ったりしました。
今、私たちが向き合うべきは「隔離された権威」ではなく「言葉の届く先」です。
誰も読まない詩誌に国費を投じる現状を改め、ネット詩が正当に評価される場を確立したい。
閉ざされた詩壇にメスを入れ、真に開かれた表現の場を取り戻す。 笑
しかし今の政府でそれが通ってしまうと、「検閲」に近い状況、あるいは「マイルドな統制」が生まれる可能性は高い。
だから少なくともボクは、このまま何もせずに黙っていようと思っています。
おまるさん、ポイントをありがとうございます。
唐草フウさん、ポイントをありがとうございます。
伊藤透雪 さん、ポイントをありがとうございます。
※國體(国体)という観点から見た場合、日本の詩歌において中心的な位置を占めてきたのが短歌であるという理解は、歴史的・制度的に見てほぼ妥当である。一方、俳句は結社という形態を通じて共同体的な結束と規範意識を形成し、社会内部に生じる感情や不満を内側で循環・調整する機能を担ってきたと考えられる。また現代詩は、国家的言語秩序から逸脱しうる思想や実験的言語を、可視的な中心から切り離された場に配置することで、結果的にそれらを隔離・管理する役割を与えられてきた側面を持つ。また、日本語詩歌の制度的頂点が天皇の詠歌に置かれてきたという事実は、短歌という形式がいかに國體と深く結びついてきたかを示していると思います。
詩誌の未来は、作品を「新しく発表する場」であることよりも、言語実践を編集し、保存し、再読可能な形で配置し直す場へと移行していく必要があるだろう。ネット空間が生成と即時的反応を担う以上、詩誌は速度の競争から距離を置き、時間差の読解や再記述を制度化する媒体としての役割を担うべきだ。
具体的には、ネット詩や既発表作品の再掲載と批評の併置、数年単位での特集的再検討、言語的傾向そのものを主題とする編集などを通じて、詩誌は「完成作品の展示場」から「詩的言語の運動を記録するアーカイブ兼思考の場」へと変化していく。
そのとき詩誌は影響力の回復を目指すのではなく、詩が移動した先を追跡し、蓄積するための遅く持続的な批評装置として、現代の言語環境において不可欠な役割を果たすだろう。
室町 礼さん、ご指摘ありがとうございます。
「詩を論じることは、人間としてどう生きるかを論じることと切り離せない」という点には、私も強く同意します。その意味で、「詩の衰退」という言い方が、人間のあり方そのものの変容、あるいは劣化を含意してしまうというご懸念は、もっともだと思います。
また、「移動」よりも「転位」という概念のほうが適切ではないか、という指摘も重要だと感じました。吉本隆明の『転位のための十篇』が示した問題系が、自己表出としての詩の行方をめぐる切実な問いであったことは、改めて確認されるべきだと思います。
ただ、拙稿であえて「移動」という語を選んだのは、詩的言語が必ずしも内面的切実さの深度だけによって評価される場に留まらず、制度・媒体・発表環境といった外部条件の変化によって、出現する場所そのものを変えてきた、という側面を強調したかったからです。SNSやネット詩における言語実践が、必ずしも「真の自己意識の解放」に至っていないというご指摘は、私自身も共有しています。
その上で、私が問題にしたかったのは、そうした通俗化・ジャーナル化を即座に否定するのではなく、そこに現れている言語感覚や衝動を、どのように読み取り、再配置しうるのか、という点でした。対症療法に終わる危険性を孕みつつも、そこに現れているものを一度引き受け、批評的に蓄積する場がなければ、「ほんとうの自己意識の解放」へと向かう回路そのものが失われてしまうのではないか、という危惧もあります。
吉本が提示した「転位」と、現在私たちが直面している言語状況とのあいだには、確かに視点や方向性の差異があります。その差異こそが、詩に対する姿勢の違いとして現れている、というご指摘は、今後さらに考え続けるべき論点だと思います。貴重な問題提起として受け止め、引き続き検討していきたいと思います。
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