作者からのコメント
りつ様:おっしゃることは一定量理解出来ます。
言論の自由は表現の自由は諸刃の剣です。この物語を聞いて私の兄を許せないと考えた人はもしかしているかもしれない。しかしそれと同様にこのような文を書く私を許せないと思う方もいるでしょう。
兄が殺される可能性もあるかもしれない。しかし、私が殺される可能性だって同じくらいあります。それでも私は書きたい。最早私には失うものがない。守るべきもない。もし守るべきものがあるとしたら美意識と真実の物語だけです。
私は自分以外誰も書くことの出来ない私の身に起き、多くの人が共感可能であろう物語を書き記したい。
そしてもし兄が私の文に影響された人間に殺されたとします。それはこの文章や私の責任でしょうか?
あったことを無かったことにされている。物語を取り戻したい。それを読んで兄を殺し、私に不利な状況を作り出した人間がいたとして、責任はその人間に全て預けられるべきと私は思います。
だって誰のために彼は兄を殺すのですか? それをやられたら困るのは私だということぐらい分かるでしょうに。
おちゃらけるということ気高く生きるということを深く分ける必要はないと思います。わかっているかと思いますが念のために。
りつ様
atschan69様
いいねありがとうございました。
---2025/01/21 22:31追記---
りつ様
倫理観の問題ですね。
>私も今日1人、人を殺しました。
ねぇ、鏡さん?脳内で人を殺すのと、殺す計画をたてて何らかのじじょうにより実行出来なかったのと、じっさいに殺すのと、いったい何処がどうちがうのでしょう?
この三つの違いがわからないということは現実と妄想の判別が出来ないということで病者と捉えられ病院の餌になる可能性は免れません。
また私のケースを読んだ子供が暴力兄を殺せばいいじゃないか? と思う可能性のお話ですが、それはやればいいと思いますよ私は。少年法で守られるでしょう、若い子だったら。しかし良心が邪魔して出来ない人もいるし、どちらがいいと思うかはその人間の質です。子供といえど私の描いた文章が読める知的レベルまで達しているのならその辺の倫理観は本人の質に任せるしかないのです。
またどちらが良質かは本当に難しい問題です。私は殺さなかった。しかしそれが良質かなんて私だって分からない。
猛反撃して殺すまでやったって暴力に対する抵抗としてありではあるのです。ただ私はお勧めしませんけどね。やることを決して否定はしない。
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