ポイントなしのコメント
[田代深子]
 基本的に、作者と読者の間に対話はなかろうと思います。なぜならば、作者の近くに、感想を述べたり朗読をしたりする読者ばかりがいるわけではないからです。作者に対して読者は不特定多数であり、どの読者もそれぞれに詩の意味を自由に広げて読むことを、誰にも止めることはできません。自作が不特定多数の読者にどのように読まれようと、本質的に作者にそれを咎め立てる権能はなくなります。ほかならぬ詩を、不特定多数に提示するというのは、そういうことです。  詩はもともと、言語の抽象性や多義性をあてこみ、読者に対し、作者が書いた原体験の「エッセンスのみ」を伝える文芸です。すなわち、詩の多義性は、読者の中にある経験をつつき出すきっかけになりこそすれ、作者の意図(や体験)をそのままを伝えるものではあり得ません。それが詩の、文芸としての顕著な特徴であろうと思います。  詩に対して解説を付けるつけないは、まったく各作者の自由でしょうけれども、書き手として言うならば、わたしはそれは野暮だと思ってしまいます(笑) たとえまったく意図しない形に読まれようと、たとえ悪意を持って迎えられようと、読者の読みに何らの制限を加えたくはありませんし、そのように一作品として成立していないような詩は、書くつもりはありません。まして読者として言うならば、詩のいちいちに「これはこういう意味で、ここはこういう状況で」などと解説されるのは、まったくの興醒めと言わざるを得ません。 追記:ここにこうして意見を申し上げていますのは、当作品を詩だと思わず(詩であれば批評をします)、ひとつの意見だと思ったからです。意見を出し合って互いの考えを理解しようとするのは、まさに対話であろうと思います。ですからこれを対話としましょうよ(^^) そこで、詩の世界にあるのは、「作者と読者の」対話ではなく、「作者と作品」「作品と読者」の対話であろう、とつけ加えたいと思います。詩が媒介し、詩が中心にあるのです。作者は詩に自分の思い描く思考や光景を必死に表現しようとする。読者は詩を深く読み込んでいくことで、作者自身の姿をおぼろに想像しながらも、自分自身のなかにある経験によって詩を体験し、そこで生まれる新しい世界を知る。これが詩の世界にある対話でしょう。その新しい世界は、作者だけのものでも、読者だけのものでもない。これが詩という、言葉の象徴性を高める文学によってこそ可能な、対話であろうと思います。  もっとも小説にしても映画にしても絵画にしても、それがテクストであるからには、作品が媒介となるでしょう。作者と読者を分断しつつ、角度をずらして接続させる結節点となり、作品に可能性が生まれる。そのように考えます。  わたしの作品もそのようなものであるようにと思い書きますし、他の人の作品もそのようなものとして読みます。詩を深く考えながら読むことは、その作者自身を理解することとは違うと思うのです。  まぁこのフォーラムなど、作者と読者が個人的に意見交換できる場ならば、詩以外のところで理解し合うことも可能でしょうが、たとえばもう亡くなったり遠くにいたりする詩人に、詩に解説を付ける類のことは求められないでしょう? それでもわたしたちは、遺る詩を懸命に読むことで、そこから違う可能性をとりだすことができる。そういうことです。
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