ポイントのコメント
[とうどうせいら]
書いてもいいか、わからないのですが、
この詩は随分前に某所で論争になった詩だというのを去年に知りました。
その時は、詳細は覚えてないのだけど、
石畑さんの詩が官能的過ぎるというので、
女性の詩人の人達から随分非難されていたのを読んだのですが、
いま、これを読んでみると、
わたしには逆にエロさ?は感じなかったです。
(石畑さんにとってそれが褒め言葉になるのかどうかわかりませんが)
(ただ、わたしも作風が多少官能的だそうで、
同性から嫌味を言われたり、
ヘンな異性がついてきたりということが少なくないので、
普通の人と比べるとちょっと感覚が違うのかもしれないですが……)
今わたしは、球体間接人形というジャンルに関心があって、
人形の詩を書いたりするのですが、
男の足を洗い泡を流して、
女がこれから生きていくための足をしつらえてやる(?)、
ところは、
人形作家さんが人形を製作する時の最後の組み立て作業に似ている、と思いました。
この世に命を送り出すための作業というか……。
人形に命はないんですが……。
作家さんに言わせるとこどもといっしょなんだそうです。
わたしは体が弱かったので、
(退院して)「歩いて」花火大会を恋人と見に行く
っていうことが目標だった時期があって、
念願かなって自分の足で浴衣で見に行った時しあわせなきもちでした。
衰弱が激しくて歩くということが難しかったし。
でもその時期もしひとりだったら退院できたかわからない。
随分いろんな人に支えてもらったし。
だから「ひとに支えられている、送り出されている、」
っていう実感について書こうとしたらこうなったんかなと思いました。
んで、なぜ性愛詩的な形になったのかというと、
たまたま他の人よりもその表現に近しい場所に筆者がいただけかなと思いました。
それは個性だしそれでいいんじゃないかなあー。
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