ポイントのコメント
[たま]
興味深く拝読しました。例えば、平野啓一郎の「私とは何か」にある「分人」という概念があります。「私」は様々な状況に即して様々な「私」になることができるという概念ですが、人はそうして生きているというのはよく分かります。それで、その様々な「私」を整理して行くと、最後にどこにも所属しない「私」が残ってしまいます。たとえ1パーセントであってもです。その最後の「私」こそが、真の「私」と言えないだろうかと思うのです。 この作品の各連は分人された人々と同じく分人された昆布茶さんとの日常、と読むことができるのですが、詩人である昆布茶さんはそれらを柔らかく包み込んでしまいます。 休日のうだうだとしている昆布茶さんはどこにも所属しない「私」なのです。 「パワーなんていりません 必要なのは認識です」の連以降に存在するのは最後に残った「私」でしょう。 平野の「分人」という概念は蝋燭のように固まっているとぼくは思うのですが、昆布茶さんのこの詩を読むと、温かく滲み出るものがあります。生きて血を流すということでしょう。 「時間軸上で刻々と変化してゆく えたいのしれない自分が やはりえたいのしれない社会と対峙する」 分人しなければ生きてゆけないことを昆布茶さんは本能で捉えています。そして、最後の「私」も、逃すことなく捉えているのです。とても良い詩だと思いました。
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