詩を描く、という個性/はらだまさる
生きる必要性を感じなくなるだろう。
そして「詩を描く、という個性」は、「コトバを使う、人間」と同義であるとも思う。しかし、人間というのは孤独であるが故、その痛みを敏感に感じとる感性があるが故に、詩を描き、コトバを放つのだ。そこには蕭然と臆病が寝転んでいるが、臆病のどこが悪いのだろうか。臆病を忘れるくらい、その痛みを忘れるくらいコトバに狂う人間が、そこにはいるだけだ。生を粗末に考える人間よりも、よっぽど優れている資質ではないのだろうか。死を恐れ、生を敬う気持ちが、コトバや絵画や彫刻や音楽には、原初的に備わっているのを感じとれるはずだ。詩を粗末に考える人間は、生を粗末に考える人間だ。人間が重要なのではない。個性が重要なのではない。コトバを使うこと、詩を描くということが重要なのだ。
そういった意味で、私は「詩を描く、という個性」を、深く尊重する。それと同時に、私自身もそうありたいと思う。
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