無駄の思想/白紙
 

てしまつて容易には認めてもらへない。偏見の壁は実に分厚
いのだ。
 思ふにこの偏見の根つこには無駄に対する恐怖があるやう
な気がする。人生に無駄な時間や努力があることへの恐怖、
さらには自身が無駄な存在ではないかといふ恐怖が、ことさ
らに無駄を敵視し、どうしても「必要なもの」へとねぢ曲げ
たい欲求を誘発させてゐるらしい。

 この恐怖心は実に手強い。なので、私としてははなはだ不
本意であるが、無駄を「トマソン」と言ひ換へることにしよ
う。赤瀬川原平氏の提唱する、不動産に付着して無意味に残
された無用の長物「超芸術=トマソン」である。
「午前中の時間はまつたくトマソンだつた」とか「あんな男
とかかはつて私の二十代はトマソンだつたわ」とか、そんな
ふうに胸を張つて断言すれば、せつかくの無駄を少しも無駄
にすることなく、無駄を正しく受けとめて生きられるのでは
あるまいか。

 ちなみに私は心を込めて無駄で無意味な文章を書いてゐる
のだから、この散文から「有意義な意味」など見つけられた
ら、せつかくの無駄な努力が無駄になつてしまふ。
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