『越境の衝動』  第三章/名を失う予感/板谷みきょう
 
名を呼ばれなくなったというより、
名が役に立たなくなった。

丘を下り、また登る。

その途中で誰かとすれ違った。

顔は見えないが、その影は
吉と同じ歩幅で反対方向へ進んでいった。

呼び止めようとして、言葉が出なかった。

何と呼べばいいのか分からなかったのだ。

「鬼吉」という音の並びは古い札の裏の注記に過ぎない。

風に触れた瞬間、自分の輪郭が削れた。

痛みはない。

ただ、軽くなる。

名前は重さだったのだ。

名があるから、呼び戻され、呼び分けられてきた。

だが今、どこからも声は来ない。

立ち尽くす間に、風は名の縁をさらに剥いでいく。

越えたかったのは境ではなく、名が自分を縛る仕組みだった。

次に風が吹いたとき、自分はもう何者でもなくなる。

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