遷移/道草次郎
嘘だ。朝の電話が嫌いではないどころか、救いなのだ。受話器を置くたびに、「自分」と書かれた酒樽がひとつ、またひとつと海へ投げられるような気分になる。霧笛がボーと鳴り、酒樽は波の間で揺れて遠ざかる。そうした感覚が来ない朝は、もう、ぼくの朝ではない気がする。
そして日常はつづく。養護学校を出たばかりの少年にふいのヘッドロックをされるルーティン。周囲が止めに入り、奥の小さな部屋へ連れてゆき、ぎこちない口調で、「働くことっていうのはね…」とひとりしきりのお説教の時間。それらを経て、ぼくは少しだけ感傷的になり、みずからの卑怯さを閑かに赦してしまうのだ。
誰かに貰った、ちいかわのトートバッグの中に、こっそりヴェイユの『工場日記』が滑り込んでいる。
人生を賭け慰めるに足る何かが本当にあるのか──そう問いかけると、答えは季節の仕事のように返ってくる。
秋は色をすすめ、ものごとはゆっくりと、その色の方へと染まってゆく。
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