ひとはみんな少しずつ狂っている/藤原 実
部に呼び込んでしまうからです。
たしかに、幼児は鏡像という自分の外にある視覚像にわれとわが身を「投げ入れる」という仕方で「私」の統一像を手に入れるわけですが、鏡に映ったイメージは、何といっても、「私そのもの」ではありません。
(第六章 ラカンと分析的対話)
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ラカンは言います。『たしかに<私>とその像のあいだにはいくつもの照応関係があるから、<私>は心的恒常性を維持してはいるが、それは人間が自分を見下ろす幽霊や<からくり人形>に自己投影しているからなのである。』
わたしならざるものを「私」と信ずることで、ヒトはアイデンティティを得る。そういう幻覚を見ることでヒトはかろうじてじぶんというものを保っている。
そういう意味ではヒトはみんな少しづつ狂っているのです。
「私探し」の果てにたどりつくのがどんな狂気の世界であったとしてもなんの不思議もないわけですね…。
2002/10/29
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