旧約蝶々/やまうちあつし
 
れた。しばらく沼の中をまさぐっていたが、やがて泥水から右腕を引き抜くと、その指先につまんでいたのは、光輝く一匹の蝶――。その輝きときたら、沼からつまみ上げたその人自身をも凌ぐほどで、青年は思わず顔を覆った。やがて蝶をつまんでいたその人の右手が弧を描き、蝶は宙へと放り出される。眩い光を振り撒きながら、蝶はヒラヒラ上昇していく。呆然と見上げる青年の視界には、満天の星空。
 次の日の朝、青年は沼の周囲の雑草をむしり終えると、旅の仕度を整えた。伸び放題の髭を剃り、黴の生えたパンを食べ、久しく放っておいたマントを身につけた。彼の役目は終わったかに見えた。けれども実は始まっていた。彼は訪れるいくつの街で、この沼のことを話すだろう。そしてどれだけの人がこの沼を訪れ、どれだけの蝶が旅立ってゆくだろう。
 旅に出た青年の名前は、すぐに忘れられた。
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