自由意志と責任−「存在の彼方へ」を読んでみる7/もぐもぐ
」だというのは、如何にも形而上学的である。例えば人間の体を動かしているのは、各種の生理的反応、物理的エネルギーであって、「意思」などという形而上学的実体ではない。これは例えば、ニーチェなどがはっきりと指摘しているところのものである。
ニーチェの批判を通して、「第一原因」という形而上学的問題設定は、それ自身が半ば効力を失ってしまったのであった。デカルト的心身二元論を徹底させれば、当然に、身体はあくまで物体(「延長」)として、生理的・物理的エネルギーによって動かされるものに留まるものである。「心」は、身体の運動の方向性を向け変える、何らかの未知の「ブラックボックス」に過ぎない。
しかしこのブラ
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