自由意志と責任−「存在の彼方へ」を読んでみる7/もぐもぐ
 
なのであるが。責任はこの両者の接合によって成り立つ。)

結局、私は他者であるか、もしくは私の中に他者が居る(詳しくは第二章以降の「論述」において論じられる)。

なお、「私」が「他者」だとか、私の中に他者が居るというのは、何か意味不明な文学的レトリックのようにも感じられるが、それは日常的な思考が「自由意志」論が前提とするような原子論的個人の想定に深く馴染んでしまっているからである。自由意志論は、意思の主体客体という形で、私と他者が完全に切り離されて考えられていることを論理上必要とする。
レヴィナス的な「他者」の観念において言われていることは、違和感のないように上手く表現するのは難しいの
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