カルミナブラーナより/北村 守通
となる空間が必然的に拡大されていきます。脳内が飲む、という行為で埋め尽くされていき、自分自身も飲まされます。
最近の詩でよくみかける物に、ある一つの漢字だけで紙面を(画面を)埋め尽くしているだけのもの、等といったものがあります。正直、ボクはその類の表現を見せられても、なんと答えてよいものかわかりませんでした。(コンセプトがわからなくて)でも、もしかしたらそれらはこの「われら、居酒屋にあっては」の詩に描写され続ける「飲む」と同じように、読み手の脳内を占拠させたかったのかもしれないなぁ、と考えているところです。一字にこめられている自分自身を伝えるために余分な物を加えたくない、というのもわかるのです
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