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二十三の戦争短編小説


古山 高麗雄

価格:¥3,000(税込)
 
レビュー:奥主 榮
 もう二十年近く前になるのかもしれない。曖昧な記憶を頼れば、まだ日本が「バブル景気」と呼ばれていた時代のことである。

 従軍慰安婦の問題を考えるシンポジウムのような場所に足を運んだことがある。それ以前から、従軍慰安婦の問題や、RAAのことについては、興味があった。しかし、前者については千田夏光氏の著作が細々と出されている他は、単発的な本がいくつか出され続けているに過ぎず、まとまった情報を得る機会が少なかった。ある時期から、唐突に従軍慰安婦については、語られることが多くなった。こうしたことを書くのは、「従軍慰安婦」という話題が、ある時期までは語られることが忌避されていた話題であったということを、自分よりも若い世代に方々に知っておいて欲しいからである。
 その場所で、私は非常に居心地の悪い経験をした。
 小さいながらも、そうした催しが新聞記事になった為か、会そのものは予想外に多くの参加者を迎えたのだと思う。そうした中、一人の老人が自ら望んで前に進み出て、自らの戦争体験を語り始めた。多くの人数の前で話す経験に乏しかったらしく、話はしどろもどろで、話すことの大半は聞き取りにくかった。その方の体験に耳を傾けたいと思っている私にとっても、何を語りたいのかを理解するのは苦痛な状態であったが、自分が参加した戦地で、敗走を余儀なくされる中で、「慰安婦」の存在が自分たちにとってかけがえのないものであり、何がなんでも守らなければならないものへと変わっていったという話であるらしかった。
 それは、取りとめもない話であった。自分が所属した隊については具体的なことを詳細に語り、けれどそれでどうした状況にいたのかはよく分からないまま語り続けていく、要領を得ない話であった。一人ひとり死んでいく戦友や、慰安婦について、その葬られていくくだりになると、異様に鮮明な話になるのである。けれど、それだからこそ、話全体としては趣旨が掴みにくい、繰り言に近いようなものになっていってしまう。

 やがて参加者の一人が、老人に対して「反動的で女性蔑視である」という非難を浴びせ、それに同意する拍手が続いた。僕は、老人が語ろうとしたことを聞き取り得なかったことに苦しみながら、それでも耳を傾けるのが辛い話を聞き続けない苦痛から解放されたことに感謝しえなかったかといえば、そんなことはない。
 けれど、同時に直感していた。
 老人は、二度と自らの体験を語ることはないであろう。

 彼にとっては、自分が老人となっても未だ、自分の中にどうしようもないまま放り出されていた何かがあり、そのことに対してようやく何かの決着を得ようと思ったのかもしれない。(と書きながら、いや、そんなご大層なものではなく、もっと含羞を含んだ、けれどこのことを誰かに告げずには墓場に行かれないといったものがあったのではないかと、そのときに思ったのであった。)


 「二十三の戦争短編小説」(小山高麗雄、文春文庫)という本を手にしたのは、行きつけに書店に平積みにされていたからという、非常に単純な理由からであった。半年以上もつんどく状態が続いていた。


 僕の好きな映画監督に、岡本喜八という方がおられる。
 かつて東宝で鳴り物入りの企画として「日本の一番長い日」という映画を撮った。1945年の8月15日を描いた、極めて完成度の高い映画である。けれど、その映画を撮りながら、「これは自分の体験した8月15日とは違う」ということで、自主制作に近い形で「肉弾」という映画を撮った。戦争の最中に、お腹が減っていることや、軍神になる前に女と一発やっておきたいということでいろいろと考える兵隊を描いた作品であった。そういう中で、自分が守るべき祖国とかそういうものを一所懸命に探していって、最後はただ「馬鹿野郎」と叫ぶしかなかった、そういう切なさを描いた作品であった。
 「肉弾」はそれでも名作として評価されている。けれど、山口瞳の原作を得て撮った「江分利満氏の優雅な生活」は、興行的にはヒットしなかったそうだ。この映画のラスト三十分は、主人公が酒に良い、延々と管を巻くシーンが続くのである。周りに迷惑をかけながら酒を飲み続け、本棚から引っ張り出した戦没学生へと送られた一人の女性の恋文を読み上げるシーンが、とてつもなく切ない映画なのである。
 稚拙な文章で語られた真情を、「これを笑える奴がいるのか」と主張する主人公が、とてもとても切ないのである。それを、突き放して描いているからこそ、極めて優れた一作となっているのである。


 「二十三の戦争短編小説」は、作者が五十代から八十代にかけて書かれた、戦争に関する作品群が収録された本なのである。
 戦争は、イデオロギーの問題として語られることが多い。それが正しかったか、間違っていたかということが踏絵にされてしまうこともあるのだ。けれど、そうした二元論にはまとめ得ないからこそ、戦争について語ることそのものが、一種の泥沼化の様相を呈する。
 けれど、もしも文学の問題として戦争が扱われるとしたら、そうした二元論からは記述は出発しない。「これを笑える奴がいるのか」という問いかけが、しかも「笑われることは覚悟の上」という前提で、なされていったりもする。自分が、所詮は「知り得なかった巨大ななにか」に対する含羞を含んだ感情を伴った言葉が、ようやっと紡ぎだされるに過ぎないのだ。

 この一冊の文庫本は、ここのフォーラムにいる、一人でも多くの人に読んで欲しいなと思うのである。私と同じ傾向の考え方をする人だけではなく、異なった価値観や考え方をする人々に対しても、そう思うのである。
 例えば「ここに収められた小説は、三十年ぐらいの年月をかけて書かれたものの集大成です」といった話を聞いたときに、「年月などに価値を認めない」と言い張るような、そんな跳ねっかえりの方々に対してこそ、是非読んでいただければと思うのである。

 それだけ、「凄い」一冊なのである。
      2005年 2時 42分 奥主 榮
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